DMオピニオン
2017年03月17日
第16回 徐々に襲いかかる合併症
1型糖尿病になって10数年が経過して、僕は20代の中頃になった。低血糖の対処やインスリンの注射、血糖測定など、まあ面倒なことは多いけれど、1型糖尿病との生活にはだいぶ慣れてきた。けれど、僕にはひとつだけ、どうしても慣れないことがあった。それは毎月の診察で、ドクターの口から「先月のHbA1cの結果」が言い渡されるあの瞬間だ。
合併症の恐怖
ドクターは診察室で冷静に、いつも僕のHbA1cの値を教えてくれるけれど、患者の僕としては、内心とてもビクビクしながら、いつかいつかとその瞬間を待っているのだ。
ただ、あの深夜に起こす低血糖の影響なのか、それとも、最近導入した新型のインスリンである持効型溶解インスリンのおかげなのか、8%〜9%(JDS値、以下同)が当たり前だった僕のHbA1cは、ときどき8%を切るようになった。
8%台と言われれば、僕にとっては少し後悔するHbA1cの値で、9%台と言われれば、「やばい!」とかなり焦る数値である。この辺りの数値だと、嫌でも糖尿病の三大合併症と言われる腎症、網膜症、神経障害への不安が頭をかすめる。塩分制限とか、透析とか、レーザー治療とか、失明とか、インポテンツとか、壊疽とか……嫌な連想が、自動的に思い浮かんでしまうのだった。
だから合併症への不安があるときには、ときどきドクターと話して、より正確に腎機能を調べてもらったりした。自宅で蓄尿して、再度、病院へ持参する類の検査だった。けれども、その腎機能にも合併症はみられなかったし、4カ月に一度行っている眼科での眼底検査でも合併症は起こっていなかった。ただ、視力に関しては、既に0.1を切ってはいたけれど。
なぜHbA1c 8%を切ったのか?
本来は、この理由をできるだけ正確にドクターと推察し、今後に活かせるようにしておくことは、とても大切な作業だと思う。けれども、当時の僕はそんなこと深く考えもしなかったし、もちろんドクターへ相談するための自己管理ノートも持参しなかった。「先月は夜中に意識もなく勝手にチョコレートを食べた」とも言えなかった。ただ、7%台だったときには、(あの深夜の)低血糖が多かったから7%台になったのだ、と自分で勝手に決めつけて診察室を出た。
そして、僕は仕事に邁進した。
トンカツ弁当の悲劇
僕の働く輸入車ディーラーでは、ご存知のとおり展示会を行う。新型車が発売されるときだとか、3,6,9,12月といった決算期には、多くの自動車メーカーはたくさんの車を販売しようと目論むので、展示会がやたらと多い。当時は、このイベントに絡んで、自動車の値引きも行われていた。
展示会の時には、会社で出前を頼んでくれた。それは、だいたいがトンカツ屋の、お重に入ったトンカツ弁当だった。
僕は脂が乗ったロースカツを愛してやまない。けれど、ロースカツ弁当をすべて食べた日には、血糖値は急上昇して、おまけになかなか下がりにくかった。もちろんカロリーも多い。大好物なのだが、あの怖い栄養士さんの顔を思い出すので、僕はいつも控えめなヒレカツ弁当を頼んだ。
通常の展示会では、昼食をゆっくり食べる時間がある。けれど、今回の展示会に限っては、何かと忙しく、僕は急いでヒレカツ弁当を食べた。すると、口の中で何か音がした。慌てて僕は、口を手で覆って、噛み砕かれたヒレカツと、ごはんが混じり合ったその物体を左の手のひらに出した。
噛み砕かれたヒレカツとごはんを、今度は右手の人差し指で恐る恐る崩していくと、なんと僕の口の奥にあったはずの歯が混ざっていた。
歯が抜け落ちたのだった!
僕は唖然とした。
そして1型糖尿病の人生が終わるまでに、僕は何回、こんなショックを経験するのかと、呆然とした。
普通なら、ゴキッ、とか、ガリッみたいな音があるんじゃないか、と思った。けれど、静かに僕の歯は抜けた。痛みもほとんどなく、出血もあまりなかった。とりあえず、歯はそのまま残飯と一緒にゴミ箱に捨てた。僕はあまりの恐怖に、次の日に会社近くの歯医者に行った。ちなみに、現在の日本糖尿病協会には歯科医師さんも登録できる歯科医師登録医制度がある。
歯医者さんの対応
本来、歯が抜け落ちると痛そうなものだけど、痛みはほとんどなく、歯茎からの出血もあまりなかった。だから歯医者さんでは消毒する程度で済んでしまった。
けれど、トンカツ事件があった少し前くらいから、僕のいろいろな歯は痛み出していたのは事実だし、事件後には、ときどき起こるあまりの激痛を我慢するために、市販の痛み止め薬を、カバンだけでなく車や会社の机の中にも入れておいたほどだった。歯は週に1回くらいのペースで痛み、僕はほとんど毎週、歯医者さんに通った。あのキーンとなる音と麻酔薬の苦味に苛まれながら、歯の治療は続いた。
加速度を増して悪くなる僕の歯。しかし、できるだけ残そうと歯科医師は抜歯せず、神経だけを抜いたりして対応してくれた。けれど、治療しても、治療しても、次々に治療していない歯が痛くなった。そして、手の施す余地がない歯は抜歯する運命となった。
「遠藤さん、歯の悪化ですが、たぶん糖尿病のせいだけでなく、遠藤さんの場合、タバコの影響も大きいですよ」
歯科医師は、握っているメスよりもシャープな表情で、冷静な事実を突きつけた。そして、僕は反論した、心の中で。
先生、仕事だけでなく、1型糖尿病のストレスもあって、きっと僕はタバコを吸い続けているのです。おまけに睡眠中に低血糖を起こせば、勝手に甘いものを食べてしまうから、寝る前に歯磨きしたところで、先生、何の効果もありません、と。
ただ、進行している歯周病を前に僕は無力だった。きちんと、毎食ごとに、綺麗に、歯磨きしておくべきだった……と、素直に後悔もした。
もくじ
- 第1回 あなた、一生、インスリン注射が必要です
- 第2回 人前で低血糖になるな
- 第3回 就活と見えざる何か
- 第4回 消えたインスリン
- 第5回 消えたインスリン その2
- 第6回 アルバイトの経験
- 第7回 大学での部活
- 第8回 社会人1年目、罹病10年目、マグネットへの羨望
- 第9回 1型糖尿病(23歳、男)の性
- 特別寄稿「被災した糖尿病患者さんへ」
- 第10回 表彰状の行方
- 第11回 トップセールスへの道 ―超速効型の登場と低血糖―
- 第12回 仕事に打ち込む夏 ―データか、センスか―
- 第13回 お酒と血糖値と現実と
- 第14回 恋人ができるまで
- 第15回 低血糖との戦い
- 第16回 徐々に襲いかかる合併症
- 第17回 インスリン注射の早わざ
- 第18回 糖尿病とカンセン
- 第19回 1型糖尿病は僕の性格をも形成する
- 第20回 一生続く不安と、どう向き合えばいいのか
- 第21回 5年後の自分とセールスという仕事
- 第22回 朝の血糖値と覚えてない低血糖
- 第23回 シックデイの苦しみ
- 第24回 1型糖尿病と自律神経と運動
- 第25回 超えられる壁 越えられない壁
- 第26回 1型糖尿病のポテンシャル
- 第27回 心のそこにあるモチベーション