DMオピニオン
2016年01月21日
第6回 アルバイトの経験
書類の配達のお仕事
僕は大学3年生までにアルバイトを3つやった。カードマンとコンビニエンスストアは、性に合わず、1か月しか続かなかった。3つめの麻雀屋のバイトはなぜか3年近くも続けることができた。店長からは、「社員になれ」と言われたこともあったけど、それは丁重にご辞退申し上げた。
就職が決まってから、残る学生生活を有意義に過ごそうと、アルバイト情報誌をめくっていると、書類を配達するバイク便の仕事が目についた。1,100円と時給も悪くない。電話で応募し事前に1型糖尿病であることを伝えたけれど、難なく面接となった。
アルバイトの面接
「1型糖尿病で何か問題になることはありますか?」
面接では会社の社長からいきなりドキマギするような質問が飛んできた。
「低血糖の感覚があったときには血糖測定とブドウ糖が必要です」
頭で考えるよりも先に声が出た。面接という緊張の場面で、正確に回答できた自分に自分で驚いた。そして、それだけ伝えれば十分か、と僕は自問自答した。
あっ、そういえば……次の瞬間、僕は「ときには救急車が必要になるケースがあります」と口走っていた。
「救急車?」
社長の右の頬の上が一瞬上がって、右目が細くなったように感じた。社長の右目が採用の扉を閉ざしていくように思えた。冷や汗が額から滲んで、二人の間に沈黙が続いた。5…6…7…10秒。救急車なんて言わなければよかった。コレでまた、アルバイト情報誌を一から漁ることになる……と思った。
しかし不採用の通告の代わりに、社長は「低血糖はいつ来るかわかりますか?」と聞いてきた。1型糖尿病患者の僕にとっては、何とも意味のない質問だった。
「分かるわけがないだろう」という回答が正解だ。しかし、この質問は、バイトの面接だけでなく、就職の面接でさえ、いや、今までの10年以上に及ぶ1型糖尿病の生活で、初対面の誰からも聞かれたことのない質問だった。
不思議な気がした。どうもこの社長は、いままで身近で見たことのない病を熱心に理解しようとしているらしい。彼の質問には、温かい人柄が感じられた。ゴーンと鐘が響くように、僕の心を打つものがあった。
「それはわかりません、ただ自分で対処できると思います」と僕は素直に答えていた。
そして、採用となった。
バイトの経験は、社会に出る準備
アルバイトの初日、朝礼が行われた。
「遠藤くんは1型糖尿病があるので皆さん気に留めておいてください」と社長は言った。
仕事は50ccのキャノピーと呼ばれる屋根付きのバイクで都内を走り回ることだった。顧客の会社へ書類を取りに行って、別の会社へそれを届ける。取引先が堅い企業だからか、ネクタイ着用が義務づけられていた。朝はきちんと髭を剃り、ハードムースでガッチリ髪を固めた。こんな朝を毎日迎えて、学生気分だった僕の気持ちは嫌でも引き締まった。
そして初めてだらけの顧客の会社を訪問すれば、緊張感はさらに高まる。そのせいで、僕の使う敬語は甚だ理解不能なものになっていった。
「書類を届けに参られました」
まるで第三者が居るかのような僕の敬語。配達先の会社の人はクスクス笑った。
受付時間に間に合わずに怒られたこともあった。
でも、限られた時間の中で、風に吹かれながら黒いグリップを回して進むこの仕事が好きだった。そりゃあ、多少は低血糖の不安があったけれど。
バイト先の職場の雰囲気
職場はまるで、『メジャーリーグ』というアメリカ映画に出てくる更衣室のような雰囲気だった。神様にハマっている40歳代くらいの男性や、勉強熱心で華奢な大学院生、モデルなみに綺麗な女性。個人の隠し事などまるでなく、あまりにも強烈な個性の持ち主が多い職場に、少し引っ込み思案な僕の1型糖尿病という個性は薄らいだような気がした。
社長がフランクに僕の病気の話をバイト仲間にしたので、新しく職場に入ってくる人がいると、僕自身で1型糖尿病の件を積極的に知らせた。理解を示してくれる人には、もっと詳しく自分の経験を語った。
ちゃんと伝えていたおかげで、シックデイのときには、1型糖尿病を理由に遠慮せず休むことができた。低血糖と思わしきときには、皆で行う書類整理の仕事をちょっと中断して、血糖値を測ってジュースを飲んだ。誰も非難はしなかった。もちろん、バイト仲間皆が1型糖尿病を深く理解したわけではなかったが、今までのバイト先に比べれば居心地が良く、自然体で続けられた。
僕より年齢も身長も20くらい上で、笑うとエクボができる世話好きのオジさんがいた。僕の就職先である自動車販売の業界経験者で、「就職する前に、営業のことを勉強しておいた方がいいぞ」と、僕の顔を見るたびに繰り返した。やったことのない営業をどうやって勉強すりゃいいの、と僕の頭はグルグル回ったけれど何も浮かばなかった。
「ただでさえ自動車の営業は競争社会なわけ」
「はあ」と僕は頷いた。
「おまけに君は1型糖尿病というハンディもあるわけだから、誰よりも早く仕事の勉強をしておいた方がいい」
ふと、マリオカートのスタートラインが思い浮かんだ。スタートからダッシュを決める1型のマリオ。
とりあえず、トップセールスマンの書いた本を買った。
その本には飛び込み訪問やお客さんの心理を掴む方法など色々な技術や体験談などが書いてあった。けれど、どうも実感は沸かなかった。営業なんて一度もやったことがないのだから、得意気な語り口は胡散臭くも思えてきた。
でもまあ、バイトが終わった後、ほっと一息、喫茶店でコーヒーを飲みながら、僕はこの本を、怪しみながら読み進めた。
僕はとうとう就職する前の日まで、このバイク便のバイトを続けた。さまざまなビジネスシーンを体験したり垣間見ることで、いろんな事を教えられた。社会に出る、良きウォーミングアップになったような気がする。
そして、1型糖尿病を理解しようとしてくれた社長には、就職の際の身元保証人をお願いし、快く引き受けていただいた。
もくじ
- 第1回 あなた、一生、インスリン注射が必要です
- 第2回 人前で低血糖になるな
- 第3回 就活と見えざる何か
- 第4回 消えたインスリン
- 第5回 消えたインスリン その2
- 第6回 アルバイトの経験
- 第7回 大学での部活
- 第8回 社会人1年目、罹病10年目、マグネットへの羨望
- 第9回 1型糖尿病(23歳、男)の性
- 特別寄稿「被災した糖尿病患者さんへ」
- 第10回 表彰状の行方
- 第11回 トップセールスへの道 ―超速効型の登場と低血糖―
- 第12回 仕事に打ち込む夏 ―データか、センスか―
- 第13回 お酒と血糖値と現実と
- 第14回 恋人ができるまで
- 第15回 低血糖との戦い
- 第16回 徐々に襲いかかる合併症
- 第17回 インスリン注射の早わざ
- 第18回 糖尿病とカンセン
- 第19回 1型糖尿病は僕の性格をも形成する
- 第20回 一生続く不安と、どう向き合えばいいのか
- 第21回 5年後の自分とセールスという仕事
- 第22回 朝の血糖値と覚えてない低血糖
- 第23回 シックデイの苦しみ
- 第24回 1型糖尿病と自律神経と運動
- 第25回 超えられる壁 越えられない壁
- 第26回 1型糖尿病のポテンシャル
- 第27回 心のそこにあるモチベーション