DMオピニオン

インスリンとの歩き方
著/遠藤 伸司

2015年10月01日

第2回 人前で低血糖になるな

 2ヶ月の入院生活を終え、退院手続きを済ませて病院の自動ドアの前に立った。扉が開くと真夏で太陽が歩道を焦がすほどの暑い日だったが、目の前に広がった景色は、爽快で美しいものだった。普通の生活に戻れる喜びに、活力が湧きあがるのを感じた。

 その一方で、インスリンの入った瓶(バイアル)、赤いキャップのついたシリンジのプラスチック注射器、大きな血糖測定器、角砂糖、この4つを常に持ち歩くことが、その日から社会に戻るための僕の命綱となった。今のように気軽に注射できるペン型の注入器もなければ、小型で高性能な血糖測定器も当時はなかったのだ。

 不安に感じていた1型糖尿病との生活の始まりは、意外にも杞憂に終わった。違いと言えば、両親はカロリー計算した食事を作り、僕は食事前に血糖測定と、瓶から注射器でインスリンを吸い、注射することだった。冷や汗や、焦燥感みたいな感覚が起きれば、低血糖を疑い、血糖を測り、角砂糖を食べた。

 50歩100歩、そのくらいの差だった。なんだ、たいした事ないじゃないか。

真っ暗な映画館

 しかし、異変は突然やってきた。

 それは、退院後、3ヶ月くらいを経た中学1年生の秋だった。まずい、学校に遅刻しそうだ!そんな焦りでベッドから飛び起きた。すぐに血糖測定して、インスリンを打ち、ごはんを口に突っ込んで、すっ飛んで家をでて駅に向かった。

 ようやく駅に着く、その寸前で体の様子がおかしくなってきた。まるで、上映が始まる前の映画館にいるような感覚に襲われた。上映前の会場は明るいライトに照らされている。ざわざわした人の声も聞こえる。開始のブザーとともにライトは徐々に暗くなり、最後は目の前が真っ暗になる。そんな映画館の中に、通学途中の僕は入り込んでしまった。

 眼前の景色が、外周から徐々に薄暗くなり、周りにある物がどんどん見えなくなっていった。視界が閉ざされていく中、近くにあった目立つ色の赤い自動販売機を見つけ、そこにもたれかかった。そして、映画館は真っ暗になった。

 初めて経験した低血糖昏睡だった。低血糖の予兆など(冷や汗や焦燥感など)、ほとんどなかった。そのため、低血糖かな?と疑った時には、既に意識が混濁し、「まずいまずい」と自らに念仏を唱えながら、挙動不審になっていた。もはや、血糖を測ったり、角砂糖を食べる余裕も時間も残されてなかった。

 重症な低血糖昏睡のときは、あの急に暗くなる映画館のような感覚に加えて、痙攣も起きた。ビクン、ビクンと顔は小刻みに左右に震えた。僕の場合、歯をギューっと食い縛る癖があったため、よく舌を噛みちぎった。口から出血し大量の血がついた服、頭が割れそうなくらいの頭痛、縫合され痛すぎる舌、意識の回復とともに、そんな惨めな後遺症と嫌悪感に悩まされた。

「人前で倒れて迷惑をかけるな!」
「人前で低血糖になるな!」

 無慈悲で差別的と思えることも言われた。今でこそ数秒になったが、当時の血糖の測定時間は3分。急激な低血糖のときは、測定結果など待っていられない。インスリンも今ほど発達していなかったので、乱暴な言い方をすれば、低血糖昏睡は昔の方が明らかに不可避だった、そう思う。そりゃ、そんな昏睡はない方がいいに決まっている。誰が好んで昏睡などするもんか。

 だから、人前で低血糖になるな!とは1型糖尿病の治療をやめろ!という意味に等しかった。インスリン注射の拒否をしたら、楽しい青春の謳歌はおろか、普通に生きることさえ厳しくなる。だから僕は低血糖に負けたくなかった。そんなことを言う相手の無知に怒りさえおぼえた。それと同時に、差別的な発言をした相手が、社会全体の意見であるようにも聞こえた。10万人に1人と言われた1型糖尿病への無理解に、得体の知れない世界で暮らす孤独と寂しさを感じた。

 けれど低血糖昏睡を起こすたびに、インスリン注射をするのが怖くなっていった。あの突然暗くなる映画館の記憶や痙攣、さらに追い打ちをかける社会の無理解。2度と経験したくないという拒否反応で、インスリンもイヤになった。

「誰が理解してくれるというのだ、この一生続く苦しみを!」

 両極の想いに、もだえ苦しみながら、心の奥深くでは何かが芽生え始めていった。

ファーストフードは敵だ

 退院した最初の2年目ぐらいまでは、きちんと血糖を測り、ドクターから指示されたインスリン量を打っていた。外食はせず、ファーストフードは敵、ポテトチップスは有害物質、チョコレートは執行猶予付きの有罪判決、糖尿病の模範生のような生活を送った。そして、その生活にも慣れた。

 しかし、発症3年後、高校生になると、友だちとの外食も増え、いつまでもカロリー計算された親の弁当というわけにもいかなくなった。害悪であったはずのハンバーガー屋にも行った。

 初めて注文カウンターに立ったときは、食事指導をしてくれた栄養士さんの怖わーい顔が一瞬頭をよぎった。躊躇する僕の前には、笑顔ではあるが、今か今かと待つカウンターの人がいた。後ろには長蛇の列もあった。まさに前門の虎、後門の狼。ついにはカロリーの控えめなテリヤキバーガーとポテトフライSと烏龍茶を頼んだ。その食事を前に、だいたいのカロリーを計算して、自分でインスリン量を決めて食べた。

 バイクの免許も取り、徹夜で麻雀に勤しむ日もあった。そんな日には、低血糖を恐れてインスリン量を少なくして打った。注射器は4、5回使いまわしても大丈夫。むろん、このような注射器の使い方はドクターや看護師、日本糖尿病学会からも推奨されていない。

カタツムリになった僕

 そんな様々な実験と苦い経験を経て、高校生ぐらいから、僕の糖尿病は「2人称の病い」から「1人称の病い」、いわゆる家族や医療関係者の支援の少ない自力での1型糖尿病治療へ変化していった。その階段を登りながら、芽生えた信念は、自分の病気のことは自分にしかわからない、辛いことも治療方法も、どうせ誰にもわからないという反骨精神だった。

 だから医師から治療上の注意を受けることは、とても嫌な事だった。高校生という反抗期も重なり、かなり卑屈になった。僕の病気の治療は、僕にしかわからない。だって、糖尿病と生活しているのは僕なわけで……。悪化している血糖値やHbA1cをよそに、強気な姿勢を崩さなかった。

 僕はカタツムリになった。1型糖尿病との生活に慣れれば慣れるほど、カタツムリの殻はどんどん厚くなり、そして診察時は、首を引っ込める。そんな厄介なカタツムリ。

 発症した中学生のころから、1型糖尿病であることを隠さず生きてきた。そのため、この病気を少しでも理解してもらおうと、友達、知人、それこそ出会った人、全てに伝えてきた。ただ、理解してくれた人は本当に少なかった……。心をオープンにしてきたつもりだったが、いつも壁にブチ当たり、裏切られた。 「現実の社会は息苦しい」そんな思いだけが積み重なっていった。

 ある運命的なドクターがこの意識を壊してくれることになるのだが、それはかなり先のはなし。この状態で十数年はインスリンと歩み続け、これから大学生活と就職活動を経験することになる。続きは次回で。

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