私の糖尿病50年-糖尿病医療の歩み
12.分院の任期を終えて米国へ
大学病院長町分院は3つの内科が交替で担当していたが、その任期がきたのでどうしようかと思っていたら、山形敞一助教授より米国科学アカデミーで自然科学の各分野から1名づつ計5名の研究者の募集があることを知らされ応募した。夏に米国大使館と学術会議で面接を受け、9月20日頃に招聘がきまった。洋行は幼いときからの夢だったのでそれが実現したこと、家族の旅費も保障されたことで、喜びと期待で一杯であった。
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2002年に日米フルブライト交流50周年記念切手が出たが、これは1952年にフルブライト上院議員の、余剰物資を払い下げた代金の一部をその国との学生、教授、研究員などの交換留学の旅費に当てるという政策によるもので、これから留学が急に増加した。とは言っても留学希望者の数からみれば、少数であった。外貨の持ち出し制限のあった時代で500ドルしか持ち出せず、日本円を送ることも出来なかった。1ドル360円のレートで闇ドルは400円であった。当時の筆者の講師の月給は3万円位だったので80ドルにしかならず週給にしても安い額であった。高等学校の寮の後輩の佐々木陸郎君がアイオワ大学で5年間心臓学の研修をして帰国したので米国の生活事情を教えてもらった。日本のバスには運転手のほかに車掌がいて乗客が乗る毎に切符を切っていたが、アメリカでは車掌なしでトークン(代用貨幣)を入れてから乗ることや、多くが自動販売であることなどを知らされた。日本の街には自動販売機がまだ1台もなかった。
地方紙には出発日時の記事まで出たので、11月29日朝の仙台駅2番線プラットホームは見送り下さる人達で溢れた(当時はそれが普通のことであったが、感激であった)。
12月1日ノースウエスト DC6B 機(87人乗り)で羽田を出発した。4発のプロペラ機でエンジンから時々火を噴きながら、初冬の月明かりに映える雲の上を飛んだ。しばらくしてから、嵐のため着陸するとのアナウンスがあり真冬の飛行場に降ろされた。太平洋戦争で日本軍が最初に玉砕したアッツ島のすぐ東のセミチ諸島のシェミヤ基地であった。10時間以上も嵐の晴れるのを待ってシアトルに向かった。空港には米政府の人が出迎えてくれた。同級生の桂重暉博士の家で積もる話をして一泊し、翌朝 DC6C 機でワシントンに向かった。
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ワシントンはもはや戸外は刺すような寒さであったが、公園にはリスがいて心をなごませてくれた。
科学アカデミーではコルビー博士が親切に手続きの話をしてくれロータリークラブのバッチのような国際交流局のバッチをもらった。それからインターナショナルハウスでアメリカの歴史や日常生活、チップのことまで2、3日のオリエンテーションを受け、国会議事堂やマウント・バーノン、アーリントン墓地などを案内された。アーリントン墓地には硫黄島で兵士が星条旗を立てる像ができていて、戦に敗けたことを改めて感じられた。
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(2003年12月03日更新)
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