私の糖尿病50年-糖尿病医療の歩み

03.輸入が途絶えて魚インスリンが製品化

1. 戦争で2型は消え1型は残った
 普仏戦争や第1次大戦で、戦争になると食糧不足で糖尿病の滅少することが経験されていたが、わが国では太平洋戦争でそれがはっきりと現れた。乏しい食糧の配給で戦争末期には1日平均1,900kcalで我慢させられたので、糖尿病がよくなったのはよかったが、一方栄養失調症もみられるようになった(図1)。戦争浮腫として知られていた低蛋白血症による全身の浮腫などである。糖尿病の研究者は糖尿病がいなくなったので栄養失調の研究をしたわけである。京府医大飯塚直彦教授(秋田県出身)もその1人で栄養失調が終戦直後からその翌年に多くなったことを報告している。

図1 榮養失調症患者數の月別外來患者數に對する百分率
(京都府立医大第1内科)
飯塚直彦:日本人の栄養及び栄養失調症, 日本医書出版, 1947年 より
2. インスリン不足と魚のインスリン
 食糧不足があってもインスリンを必要とする若年の1型糖尿病はなくならなかった。1935−37年頃までインスリン末を輸入して製剤としてミニグリン(帝国臓器、武田薬品)、フィゼリン(鳥居薬品)、インゼリン(鳥居、友田)などの名で販売されていた。戦争が長引くと家畜からの抽出も行われたが、それらは軍部に優先的に納入された。

 わが国は海に囲まれているので魚は多く取れる。では魚からインスリンをとれないか。多くの人が考えたに違いない。1926年農林省に水産試験場ができ、その研究事業の1つが廃棄水産物利用試験で、魚からインスリン抽出が取り上げられた。魚博士の末広恭雄、化学の右田正男氏らが研究し、タラ、スケトウダラが着目され、1942年にはタラ1尾より約20単位抽出できることがわかった(図2)。1936年のマグロ、カツオ、タラ、ブリの漁獲高の統計をもとに、その全部からインスリンを抽出すると仮定すると48,389万単位になる。当時の日本のインスリン消費量を1日2万単位としても年間730万単位で66年間の需要を満たすことになると推定された。

図2 魚のインスリンのある膵島(ランゲルハンス島)の図
カツオ、タラは末広恭雄:魚類学, 1966年, 85頁, 岩波書店 より、
メクラウナギはChester-Jonesら編:比較脊椎動物内分泌学, 587頁, Plenum Pressより
3. 魚インスリンが製品化
 清水港の清水食品(1929年創立)はマグロの油漬缶詰を開発し、マグロの水揚げの多い気仙沼港でも委託製造していた。1939年に水産講習所(東京水産大学)を卒業して入社した福屋三郎氏は工場長直属の研究室勤務となった。気仙沼工場の監督を終えて帰るとインスリンの話が出て、福屋氏はその研究を命ぜられた。それから2、3名の助手とともに実験を重ね、福屋は徹夜もして頑張り2年後に成果を第12回農学大会で発表した(図3,4,5)。
図3 魚インスリンを開発した研究室
清水製薬五十年史(1991年)より
図4 福屋三郎氏(右端)と研究スタッフ
清水製薬五十年史(1991年)より
 その企業化は武田薬品の協カを得ることになり、1941年5月に清水製薬株式会社が創立された。製品はイスジリン「シミズ」ISZILINとして市販された。
   図5 市販されたイスジリン
 海外からの輸入は1938年より途絶えていたのでイスジリンは重宝がられた。福屋氏は国家命令の試験研究に従事していたので兵役は免除されていたが、3年間の期間が切れた途端に召集され、また翌年は爆撃で本社工場が焼失した。

 終戦後工場は復興された。マグロ、カツオよりも鯨のほうが効率がよさそうなので大洋漁業では1947年から鯨膵からのインスリン抽出を計画し、清水製薬と技術交流して5年後から鯨インスリンも製造され、1968年まで続いた。

 1954年清水製薬は「重要医薬品インシュリンの抽出の研究と実用化、生産向上」の功績で第6回保健文化賞に輝いた。

 戦後に復興された工場ではインスリンの製造も途絶えがちであったが、1948年にインスリンは統制解除、自由販売となった。やがて海外からインスリン末の輸入がはじまり、それらによるインスリンが市販された。1950年頃のインスリン製剤では注射後に発赤とか、掻痒などの局所反応が時々みられた。

 福屋氏は気仙沼の出張の折に時々、東北大学医学部にも立ち寄られたので、昔話を聞くことが出来た。

(2003年03月03日更新)

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