DMオピニオン
2018年04月03日
第23回 シックデイの苦しみ
自動車営業という山の頂上まで、あと少しのところだった。今は、明らかに胸突き八丁の8合目の正念場だった。仕事は正直つらかったが、ここまでくると、意地でも頂上を目指したくなってくる。1型糖尿病のことを考えれば、このまま突っ走ればどうなるか目に見えてはいたけれど、僕には下山などという勇気ある撤退の選択肢はなかった。
だから、会社には、休み返上で、ほとんど毎日出社していた。ときに、あのシックデイが起きてさえ、僕は休まず出社した。
シックデイと血糖値
シックデイになると、体は鉛のように重くなる。喉は腫れっぱなしになり、元々悪い僕の歯はグラグラと浮いた感じになり、そのため、食事など食べる気さえ起こらない。
食事を食べてないのだから、血糖値は上がらない気もするが、どういうわけかシックデイのときの血糖値は、食べ物を入れてないのに、つねに250mg/dLを超え、高かった。
もっと奇妙なのは、インスリンを打ってさえも、血糖値が下がる気配がまるでないことだった。
インスリンすら効かない体になってしまったのではないか、という根拠のない不安にかられたが、現実として、血糖値が上がりっ放しの状態だった。
シックデイのときのルール
だから、シックデイのときは、シックデイルールに従って、おとなしく自宅のベッドで休養をとるべきなのだろう。だけど、そんな言葉も、今の僕の耳には念仏のように聞こえた。そう、おとなしく安静するどころか、きちんと、会社へ出社した。
まあ、少しはシックデイルールに従うため、水分補給と食事補給もかねて、会社の近くにある蕎麦屋に入った。食事前に血糖値を測る。300mg/dLぐらいだった。その蕎麦屋で、いつも頼んでいるもやしラーメンを頼んだ。
本来、シックデイのときには、消化のよい炭水化物であるうどんを蕎麦屋で頼むのが本筋に違いない。けれども、ここの蕎麦屋のうどんはあまりにも不評だったために、多少消化が悪くても、うまいラーメンを頼んだ。そして、シックデイルールに従って、僕はきちんとインスリンを打ち、もやしのあんかけがのっている蕎麦屋風のラーメンをすすった。
そして、何度も何度も、僕は水をおかわりした。蕎麦屋の店員は、1リットルぐらいの氷の入った水のボトルをドスンとテーブルに置いていってくれた。
ありがたい…。
ボトルに入っていた水はほとんど飲み干し、ラーメンは汁まですすって、滝のようにでる汗をハンカチで拭い、蕎麦屋を出た。会社にはとにかく出社したものの、さすがに仕事ができる体調ではなかったので、すぐに営業に出るふりをして、車の中で一日中寝ていた。
あと数カ月の辛抱だった。あと数カ月売り続ければ、きっと僕は表彰される…。
1型糖尿病への復讐心
そんなときに突然、僕の目の前には、全知全能の神様が現れた。そして、その神様が僕の前でこう言う。
もしワシに400万円をくれるならば、おヌシをトップセールスマンにしてやろう。
神様は、その一言を最後に、僕の前から、突然、姿を消す。心の底からトップセールスという言葉に恋焦がれていた僕は、いつも学生時代の電車の中から見ていた高田馬場にある黄色い看板の消費者金融に行った。
はじめての消費者金融での経験だったけれど、月々7万円の60回払いという返済予定を組んで、僕は400万円を借りることができた。
白い帯のついた札束をセールスバックに入れて、その消費者金融から僕は外に出た。ガタンゴトンという電車が通り過ぎる音を聞きながら、僕は歩道を歩いて、高田馬場駅の改札を目指した。すると、神様がまた僕の目の前に現れた。
その400万円を今すぐワシにくれれば、おぬしを今年のセールスオブザイヤーにしてやろう。
僕は、借りた4つの帯を惜しげもなく、神様へ差し出した。そして、その神様は、現金を受け取るやいなや、なぜだか、パチンコ屋のほうへ消えていってしまった。
そして夢が終わり、僕は目覚める。
何か達成しなければ、という気持ちが、今の僕の中には絶えずあった。健常人に負けてたまるか。いや、1型糖尿病に負けてたまるか。
それは、長年苦しめられてきた1型糖尿病に対する僕なりの復讐心だったのかもしれなかった。
血糖値への誤解
車の中で目覚めた僕の体はびしょびしょに濡れ、喉はまだ痛かった。そして、あたりを見回すと、もう夕暮れだった。頭は、まだまったく回転していなかったけれど、僕は血糖値を測った。300mg/dLオーバーだった。
僕の血糖値は、もやしラーメンを食べる前も、そしてもやしラーメンを食べた後も300mg/dL近辺だった。食事をした後に血糖値が上がる、とよく言われるけれど、それは、皆が誤解している食事と血糖値の関係性だ。
と感じた。実際のところ、1型糖尿病の血糖値は、意味不明に上下動することも多い、というのが体験に基づいた僕の感想だった。
ただ、睡眠をとって、体がほんの少しだけ回復しているようだった。浮いたような感じになって、痛かった歯も少しずつ元どおりに戻っていた。
なぜ僕だけが、こんな病気を背負うことになってしまったのか。
つらくなると、いつも1型糖尿病になったときの、このセリフが頭の中でこだまする。しかし、僕は、そんなことを考えずに、前へ前へ前進するしかなかった…。
参考資料
もくじ
- 第1回 あなた、一生、インスリン注射が必要です
- 第2回 人前で低血糖になるな
- 第3回 就活と見えざる何か
- 第4回 消えたインスリン
- 第5回 消えたインスリン その2
- 第6回 アルバイトの経験
- 第7回 大学での部活
- 第8回 社会人1年目、罹病10年目、マグネットへの羨望
- 第9回 1型糖尿病(23歳、男)の性
- 特別寄稿「被災した糖尿病患者さんへ」
- 第10回 表彰状の行方
- 第11回 トップセールスへの道 ―超速効型の登場と低血糖―
- 第12回 仕事に打ち込む夏 ―データか、センスか―
- 第13回 お酒と血糖値と現実と
- 第14回 恋人ができるまで
- 第15回 低血糖との戦い
- 第16回 徐々に襲いかかる合併症
- 第17回 インスリン注射の早わざ
- 第18回 糖尿病とカンセン
- 第19回 1型糖尿病は僕の性格をも形成する
- 第20回 一生続く不安と、どう向き合えばいいのか
- 第21回 5年後の自分とセールスという仕事
- 第22回 朝の血糖値と覚えてない低血糖
- 第23回 シックデイの苦しみ
- 第24回 1型糖尿病と自律神経と運動
- 第25回 超えられる壁 越えられない壁
- 第26回 1型糖尿病のポテンシャル
- 第27回 心のそこにあるモチベーション