DMオピニオン

インスリンとの歩き方
著/遠藤 伸司

2017年01月04日

第14回 恋人ができるまで

第14回 恋人ができるまで

 営業はまさに、「仕事を取ってくるのが仕事である」と朝礼で上司は言う。

 もし仕事を取ってこなければ、つまり僕の場合は車が売れない、ということになるけれど、物理的にも、メンタル的にも、かなり追い込まれる。

 車の営業も例外ではなく、1カ月ごとに評価され、とくに(日本で名の知れているベンツとかBMWとかの)輸入車の場合は、新人の営業マンでさえ月にだいたい2 〜3台の目標をもたされていたし、中堅とかベテランと呼ばれる営業マンになれば、月に5台くらいの目標を抱えていた。

 ただ、新人でも中堅でもない僕は、2カ月ものあいだ、車がまったく売れずに困っていた。インスリンを打っても、あまり下がらない(朝食後の)血糖値のように、営業活動をしていても車はまったく売れなかった。いつもどおり、ちゃんと朝早くから出社して、手帳にぎっしり書いた営業活動を、欠かすことなくこなしていたと言うのに……。

仕事に追われて

 2カ月にわたるゼロという数字は、いとも簡単に僕の顔をゲッソリさせて、目の下にもクマを作らせた。休みの日でさえ、休んだ気分などまるでしなかったし、ときおり寝ているあいだに見る夢の中でも、給料ドロボー!とか、ろくでなし!とか、見ず知らずの他人から怒られて、うなされたこともあった。

 そして、ネガティブな気分は、さらにネガティブな感情を招いた。自分という人間がまったく使いものにならず、どこにもハマらないような品質の悪いパズルのピースに思えた。もう少し営業をしていれば、なんとかなったのではないか、と仮定法過去と書かれた牢獄に閉じ込めらた囚人にも思えた(救急車で運ばれて、低血糖昏睡から回復したときに沸き起こるあの罪悪感も、仮定法過去の産物である)。

 そんなことを考えながら、会社にあった赤い自動販売機にお金を入れて、缶コーヒーのボタンを押した。

「遠藤、体は大丈夫なのか」同僚が僕の肩に腕をのせ、声をかけてきた。

 ああ、体は大丈夫だけれど……。

 もちろん、体も大丈夫ではなかった(もはやHbA1cのことなどどうでもよかったけれど、当時使われていたJDS値で言えば8.5%のHbA1cの値だったし、今のNGSP値ならば8.9%ぐらいなので、かなり不安なHbA1cの値だった)。けれど、同僚に要らぬ心配はかけたくなかった。

「今度、飲み会やるけど来るか?」
「同じ大学だった女子が、女の子を集めるから、飲み会やろうってうるさくてさ」

 ああ、行くよ、と、あいかわらず酒の席を断ることなく僕は参加した。

合コン

 その日、僕が少し遅れてお店に到着すると、すでに飲み会は始まっていた。掘りごたつになっている居酒屋で、机の上に置かれたジョッキは半分以上が飲み干されていた。女の子が5人、同僚が7人、計12人の飲みの席だった。

「こんばんは〜、おそくなりました」
僕は、遅れたことを詫びるように、最大限の笑顔と大きな声であいさつをした。

「遅かったなぁ、まあ座れよ」と幹事だった同僚は言った。

 僕は席次を見た。普段は、将棋の駒のように向かい合って座っている男女の席順のはずが、まるで勝負がつかないオセロの白と黒ように、交互に座っていた。

 すいません……と言いながら、僕は、女性と、同僚(男)に挟まれた席に座った。ぬるくなったおしぼりで手を拭いてから、僕は隣の女の子へ声をかけた。

「はじめまして……」

 その後、かけつけのビールを1杯飲んで、隣にいた女の子と話した。不思議とあまり緊張することなく話しをすることができて、話題も途切れることはなかった。おまけに笑いながら趣味や仕事のことなど、いろいろな話もできた。

 だから、唐突だったかもしれないけれど、僕は、すぐに1型糖尿病を告白した。勇気を持って……。

糖尿病の1型と2型

「糖尿病なんだ。痩せているのに……」と彼女は言った。

 その糖尿病は2型の糖尿病で、僕は1型の……わかりにくいよね、ごめん、と僕は言った。

 医療者以外の人に1型糖尿病のことを説明しようとすると、いつも「糖尿病」というキーワードだけがヒットしてしまう。僕の病は「糖尿病1型」ではなく、「1型糖尿病」であるわけだから、つまり、病名としても、1型が先頭にあって相当強調されているはずなんだけれど、1型を省いて理解する人は本当に多かった。

 だから、僕は、まず「糖尿病」のことを「尿に糖が出る病」だと、ちょっとだけ説明して、その後、1型と2型の違いを必死で説明した……。

「つまりさ、インスリンが必要なんだ。生きていくために……」

「へえ、大変なんだね。」

 彼女は笑顔だった。それで終わりだった。彼女にとっては、病気は遠い存在であるだろうし、それが普通のことかもしれなかった。

デート

 その後、僕は彼女と出かけるようになった。60回払いフルローンで買った98万円の中古車で、僕たちはよくデートをした。食事のたびに、彼女の眼の前で僕は血糖測定や注射をした。運転中に、低血糖の症状があったときには、彼女は、ダッシュボードから果糖ブドウ糖飲料を手にとって渡してくれ、僕はゴクゴク飲んだ。果糖ブドウ糖飲料には果糖ブドウ糖以外にも、別の何かが入っているような気がした。

 一方で、彼女が優しくなればなるほど、ネガティブなことがいろいろと頭に浮かんだ。日常生活では車が売れず、おまけに1型糖尿病という病も抱え、その上、血糖値やHbA1cの結果も気にせず、ほったらかしになっていた。一人でいるときには、いつくるかわからない合併症への恐怖は、機械で膨らむ風船のようにすごく大きくなって、彼女をつくることに対するためらいを覚えた。

 ただ、彼女と会うたびに、僕が考えているよりも、彼女は1型糖尿病のことを負担だと感じていない様子だった。

(次回へ続く)

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