私の糖尿病50年-糖尿病医療の歩み

09.日本糖尿病学会が設立
そこでPGTTを発表

1. 学会の設立
 樺太(サハリン)連理草の血糖降下作用からメゾ蓚酸の研究会が結成されたことはさきに述べた。その臨床治験が終わった頃に、WHOから糖尿病の頻度の問い合わせがあり、全国の大学病院など20施設の研究班が組織されたが、それにより糖尿病学会設立の気運がたかまった。そのいきさつは日本糖尿病学会会誌「糖尿病」第1巻のあとがきにつぎのように記されている。
 文部省綜合研究「糖尿病の化学療法班」の設立によって我国の糖尿病研究者相互間の密接な連絡が出来、同一テーマに向かって研究を進めることが出来るようになり、ここに端を発した研究者の団結は綜合研究班の完了後も糖尿病研究班として、さらに発展するに至った。このような長い間苦労を重ねて来た培地があったらばこそ、この日本糖尿病学会の設立は丁度肥えた土地に蒔いた種子のように力強い根を張って、そして極く自然に芽をふいたと云いたいような経過をとって行われたのである。しかしその間種子が経験するであろう所の困難に対する努力は勿論あったわけである。糖尿病研究班の班長であった勝沼精蔵先生、東京大学の小林芳人、沖中重雄、田坂定孝諸教授、大阪大学の吉田常雄教授、京都大学の三宅儀教授、名古屋大学の山田弘三教授の御骨折によって日本糖尿病学会設立の準備は完了したのである。

 この間にあって糖尿病研究班の班員であった東北大学黒川利雄教授、斉藤達雄助教授、慶応大学山口与市助教授、東京女子医大中山光重教授、東京大学(当時慈大)上田英雄教授、国立第一病院日野佳弘博士、京都府立医大葛谷覚元講師、大阪大学木谷威男教授、王子喜一助教授、和田正久講師、乾久朗講師、前神戸医大竹田正次教授、中野恭平講師、山口医大水田信夫教授、九州大学勝木司馬之助教授、平田幸正講師、千葉大学斉藤十六教授、北海道大学鳥居敏雄教授の力強い声援のもとに、東京大学の葛谷信貞講師と大橋茂助教授が中心となって準備を進めて来た。

 昭和32年12月15日、東京大学において日本糖尿病学会発起人会が開催され、小林芳人教授座長のもとに議事を進め、満場一致にて日本糖尿病学会の設立の必要を認め、役員の選出、会則の審議が行われた。

(略)

 ここで目出度く日本糖尿病学会は設立を終わり、次いで第3回国際糖尿病学会へ日本代表の派遣の件が審議され2名乃至3名の代表を送ることを承認した。

(略)

2. 第1回学術集会の開催
 昭和33年4月4日、5日にわたり第1回日本糖尿病学会が小林芳人教授会頭のもとに、座長を三宅儀教授(京都大学)〈臨床及び統計〉、植村操教授(慶応大学)〈眼症〉、館石叔教授(京都府立大学)〈腎症〉、黒川利雄教授(東北大学)〈心、血管障害〉、吉田常雄教授(大阪大学)、山田弘三教授(名古屋大学)〈糖尿病の診断〉に依嘱し、東京大学にて開催され400名以上の熱心な聴衆のもとに総会は盛会裡に終了した。

 また同4月4日には第2回評議員会が開催され、勝沼会長より日本糖尿病学会の国際糖尿病連盟への加入が承認されたことが発表され、デュッセルドルフの第3回国際糖尿病連盟の総会に我国より吉田常雄、中山光重、葛谷貞信の3君を送ることを発表し承認をうけた。次いで次期会頭として東京女子医大中山光重教授が選出された。

 顧みれば紆余曲折はあったにしろ、この日本糖尿病学会は実に成るべくしてなったものであり、この力強い若芽は必ずや四方に根を張り、周囲を圧する大木となっていく日も遠いことではないであろう。(以下略)

 この編集後記の執筆者名は記されていないが、薬理学の大橋茂助教授ではなかろうかと思われる。筆者も評議員会に出席したように記憶する。わが国の各学会は第2次大戦中およびその後数年間は国際会議より隔離状態にあったが、1950年以後は徐々に学術的な国際交流がはじまり、医学分野では各学会が競って国際会議に代表を送るようになった。糖尿病学会の設立も国際糖尿病連盟への加入願望が強く働いたと思われる。

 糖尿病学会を関東と関西のどちらで先発するか、研究班班長の勝沼精蔵教授(名大1内)はこのことが後に不和の種になることを考え、発起人会の前の下打ち合わせを名古屋で開いたという。そして「あとがき」に記されているように1957年12月15日に東京で発起人会が開かれた。

 翌年1958年の4月4、5日の両日、第1回の学術集会が東京大学医学部の講堂で開かれた。参加者400名と記されているが、筆者の印象では会場には200名位と記憶される。各演題に追加発言があって可成り活発な質疑応答があったように記憶する。筆者ここで、前回述べたインスリン治療後の網膜症発現症例と「糖負荷試験と糖尿病の診断」と2題の報告を行った。糖負荷試験はグルコース単一負荷試験とつぎの方法について報告した。

3. 前糖尿病を診断するプレドニソロンGTT
 1950年の前半には大学の図書館に外国誌が並びはじめたが、その数は限られていた。必要な文献は、著者宛に別刷を送ってほしいと葉書を出して送ってもらうか、カメラで撮影して引き延ばして読むことが行われていた。コピー機がなかった時代のことで、筆者はコピー機を使うとき時々当時のことを想い出し、コピー機の便利さと有難さを感じている。国外でどんな研究が行われているかを知るためにはIndex Medicusなどの索引誌で知るしかなかった。

 それをみていたらGTTにACTHを併用する方法がBerger(1952年)により、2年後にコーチゾンを併用する方法がミシガン大学のFajansとConnにより報告された。彼等の方法はコーチゾンを体重160ポンド(72.6kg)以下なら50mg、160ポンド以上なら62.5mgをGTT実施8時間30分前と2時間前に服用するというものであった。筆者は検査を受ける側から考えて、前日は服用なしで当日50g GTT開始2時間前にプレドニソロン10mgを服用するだけなら面倒が少ないと思われたので、この方法で行うことにした。検査を受ける人達には糖尿病になりやすいか、潜在的になっていないかをみる検査と説明して行った。

 糖尿病の遺伝歴のない健常者、糖尿病でない患者、糖尿病の血縁者のいる人、膵疾患の人、一過性尿糖陽性の人、軽症糖尿病の人などについて50g GTTとを1週間以内に行って比較した。

図1 
各群の普通の50g GTT(左)とプレドニソロン併用GTT(右)の平均血糖曲線
Lancet Aug.29,1960,461-463より
 その結果、健常者ではPGTTでも通常のGTTの血糖曲線と殆ど変わらないが、糖尿病血縁者では血糖曲線は大きく上昇した(図1)。膵疾患の人はさらに大きく、そして糖尿病の人はさらに大きく変動した。プレドニソロン併用による変動量(反応指数)だけを示すと図2のようになる。

図2 
各群のプレドニソロン併用時の血糖反応指数(各時点の変動量の和)の平均値
Lancet Aug.29,1960,461-463より
 このように通常のGTTではわからない異常が現れることを実証できたので、それ以後は糖尿病への進展の可能性を予知する方法としてこのPGTTを積極的に用いるとともに、前糖尿病状態(プレディアベテス)の研究をはじめることになった。

(2003年09月03日更新)

※ヘモグロビンA1c(HbA1c)等の表記は記事の公開時期の値を表示しています。

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