DMオピニオン

インスリンとの歩き方
著/遠藤 伸司

2017年02月08日

第15回 低血糖との戦い

第15回 低血糖との戦い

 僕が100万円以下で買った左ハンドルのマニュアル車には、いつも炭酸入りの清涼飲料水が積んである。僕のずさんな性格からすれば、清涼飲料水は積んであるというよりも、ごちゃごちゃした愛車のどこかに転がっているというのが正しい。

 その飲み物は、もちろん喉の渇きを満たすためのものではない。運転中に、冷や汗や手の震え、はたまた意識が集中できない、いわゆる低血糖の自覚症状が出たとき用の低血糖対策である。この緊急避難用の飲料は、長いこと車に載せっぱなしになっているので、いざ飲むときにはずいぶん古くなっている。だから、炭酸は抜けているし、味も少々変わってきていて、とてもまずくなっていた。とはいえ、炭酸が抜けているので、緊急の際には、一気に飲めるというメリットはあるわけだ。

ある事件

 さて、僕は自動車のセールスをしているので、顧客の自宅や、これからお客さんになって欲しいと目論んでいる人の家や、売れた車の登録などのために、とにかく毎日車に乗る。だいたい3万kmを1年間で走行する。多い年には、5万km走り、赤道を一周したこともあった。まあ、1日あたり、100kmは固い。

 あの事件は確か夏だった。当時の愛車には、ボタンでロックを解除するような装備はついていなかったので、鍵穴に鍵を突っ込んでドアを開けて、いつものようにシートに体を滑り込ませた。すると、何か変な臭いがするのだ。見回すと、運転席と助手席の間にあるアームレストが少し汚れていた。「車上荒らしか!?」と緊張が走った。学生時代、アメリカのモーテルで、財布もパスポートも命綱のインシュリンまでが盗まれた記憶が蘇る。

 しかし、それにしてはヘンだ……。車内には荒らされた形跡はなく、肘掛が濡れ、フロントガラスも、内側から汚れていたのだった。

 何が起こったのだ……僕の車の中で……。

 僕は、脳みそが溶けそうになるくらい猛スピードであらゆる推理を巡らせた。この車には屋根の一部が開くサンルーフが付いていたので、初めは雨漏りでもしたのだろうか、と疑った。というのも、以前、僕のお客さんが、サンルーフを開けっぱなしで車を停めていたために、室内が水浸しになったことがあったのを思い出したからだ。ちなみにそのお客さんは、修理に50万円以上かかった。

 けれど、僕の場合は、サンルーフもきっちり閉まっていたし、シートまで濡れていなかった。それに上から水が垂れてきたにしては、フロントガラスについた汚れの説明がつかなかった。

 僕はおそるおそる、肘掛やフロントガラスについた汚れを手で触ってみた。ネバネバしていて、そのネバネバはかなり固着していた。フロントガラスについたネバネバの色は、こげ茶色だった。

 ある予感がした……。

 僕は、ゆっくりと首を廻し、ソーッと後部座席に目をやった。そして信じられない光景を目の当たりにした。

 なんと後部座席に置いてあった低血糖対策用の新品の500 mLのペットボトルの中身が半分以下になっていたのだ。飲み口がフロントガラス側に向けて置かれていたコーラは、車内の暑さで中の液体が膨張し、まるで爆発したようにキャップを吹き飛ばしたらしい。噴射した液体は、フロントガラスや肘掛だけでなく、オーディオやエアコンのパネルまで飛び散って、汚していた。

 以前、「車内にインスリンを置いておかないように」という警告がメーカーからあったのを思い出した。「インスリンを打つ糖尿病患者にとっては、低血糖対策用飲料の保管も、十分注意が必要である……」と僕は自虐的に自分に向かってつぶやいた。

深夜の低血糖

 当時は、いつ起こるかわからないのが低血糖だった。今のように、血糖値をリアルタイムで、点ではなく線で表示してくれるCGMやFGMなどの医療機器がない時代だった。まだ、目が覚めているときに低血糖に襲われたとするならば、冷や汗なり空腹感なりいろいろな前ぶれがあるので、僕はそのサインが出るたびに、糖質の多いものを食べたり、清涼飲料水を飲んだりして低血糖を回避することができた。

 しかし、眠ってからの低血糖だと、そうはいかない。

 深夜の低血糖に記憶がない場合、僕は翌朝、こんなふうなことに遭遇する。

 朝起きる。ベッドサイドのテーブルには、引きちぎられたチョコレートの銀紙が散らばっている。まるで、戦場で打った銃の薬莢がバラバラと飛び散っているように、必死で食べたチョコレートの包装紙があちこちに点在しているのである。

 僕は唖然とする。たしかに口の中もチョコレートの匂いがかすかに残っているし、おまけにベットのシーツにもチョコレート色の汚れがついている。たぶん・・・いや、間違いなく、無意識にベットにまでチョコレートを持ち込んで、寝ながらムシャムシャ食べたのだ。チョコレートの銀紙は、昨日の夜に低血糖を起こしたことを証明していた。

 この状況をみるたびに、「ああ、また、やっちまった」とため息をつく。

 まあ、そこまで熟睡していなかったときは、微かな記憶がある。わずかに意識がある場合は、チョコレートの銀紙を綺麗に剥いてチョコを食べて、銀紙はきちんとゴミ箱に捨ててから寝るらしい。そして、次の日の朝も何事もなかったように、ベッドサイドは整然としているのである。

 不思議なことに、寝ているときには低血糖昏睡を起こしたことはない。いつも日中、目覚めているときに低血糖昏睡は起こる。夢中でパソコンに向かって仕事をしているときだったり、徹夜で麻雀をした次の日だったり、とにかく血糖値を測るのも忘れ、「我も」忘れるくらい何かに熱中しているときに、僕は突然倒れるのだった。

 ただ、夜中に低血糖を起こすと、翌朝に体がだるいと感じることが多い。記憶があるなしにかかわらず、深夜に低血糖状態に陥ると、かなりの体力を消耗しているのだ。しかし、そんな状態でも簡単に会社を休むわけにはいかなかった。せっかく彼女もできたので、僕はナイスで、イケてて、ブランド腕時計の似合う、多忙な高級車のセールスマンでいなければならなかった。

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