DMオピニオン
2016年06月01日
第10回 表彰状の行方
社会人1年目の僕は、かなり未熟な会社員だった。納車前の顧客の新車を電信柱へぶつけてしまったし、飛込訪問では渡した名刺を目の前でやぶられたりもした。上司はいつも怖かった。けれど、そんな僕でも手に入れられたものはあった。それは、いくつかの間違っていない敬語の使いかたと、車を素早く洗車することだった。(僕は15分で車をピカピカにするコツを知っている)。単月に最も多くの車を売った営業マンに送られる「新人のMVP賞」も手に入れた。
僕は、卒業式以外で、初めて表彰状をもらった。表彰状を見れば、「新人」とか、10月度とか11月度という「月度」という文字が書いてあった。まるで30日経てば、ビリッと破いて捨て去られるカレンダーの1ページのような表彰状だった。そういう表彰状よりも、高級ホテルの広間で、皆の前で渡されるような表彰状がほしいと思った。そして、時は勝手に過ぎて、勝手に僕は社会人2年目になった。
憧 憬
1年目で1型マリオのスタートダッシュを試みたけれど、全国にダイヤの数ほどしかいないトップセールスマン逹は、あまりにも強大で、あまりにも存在感があった。ロレックス、ときにはパネライを腕に巻いていたトップセールスの方逹は、コツコツと響く高級な靴を足に履き、歩けば磁石のように顧客を引き寄せ、契約時にはモンブランのボールペンが内ポケットから出てきて、弱点などどこにもないような人たちだった。スーツのフラワーホールに付けられた会社の社章には年号が書いてある金バッチがついていた。年号は、その年の優秀社員を意味し、すなわちトップセールスを指した。
その後の僕は、アガいてもアガいても車は売れず、雪道で動けなくなった車のようにスタックした。スタックした車から降りて、誰かに助けを求めた。どのようにしたら、車はいっぱい売れるのか、とトップセールスの人たちに聞いた。
大抵は無視された。わからない、と言われれば、まだましなほうだった。トンチンカンな質問をしているわけではなかったけれど、求めている解答はまったく得られなかった。
決 断
入社後すぐに、トップセールスに仲間入りをすることは、きっとナポレオンでも不可能だろう。 アクセルを踏んでも、虚しく空転するタイヤを感じながら、いっこうに前に進まない車にイラっとした。すぐには達成できそうにないトップセールスへの道は諦め、スタックしない道を探した。
達成できそうなトップセールス以外の道を僕は探した。僕の会社は、外車の販売以外に、自動車保険の販売にも注力していた。保険の売り上げも重要な収益となっていたからだった。その上、営業マンからは、あまり関心を持たれない自動車保険であったし、年間の表彰もあった。自動車のトップセールスに比べて、格が違いすぎる表彰ではあったけれど、アクセルを踏んで前に進めば、なんとか取れそうなものだった。
社会人2年目になって、やればやるほどシンプルでなくなっていく仕事を、なるべくシンプルにやり遂げようと思った。車が汚かったら、洗車をする。電話が鳴ったら、1コールで電話を取る。便所が汚かったら、掃除をする(そこにたとえ、誰かのウンコの残骸が残っていたとしても)。空き缶が落ちていたら、ゴミ箱へ入れる。指から血を出したら、舐めて拭く。血糖値が高かったら、食べた食事をちょっとだけ懺悔する。いたって、シンプルだ。
僕は、自動車ではなく、保険での年間表彰を目指して、前へ進むことにした。
「弊社で自動車保険をご加入頂けませんか?」
敬語も悪くない。僕は、車を買ってくれた数少ない貴重なお客さんに、会社の自動車保険を勧めたし、それだけでは足りずに、親戚、縁者、友人、知人へも自動車保険を勧めた。僕は外車のセールスマンではあったけど、その年は自動車保険のセールスマンとなっていた。
そして自分でも意外なほど、自動車保険を獲得し、表彰されることが決定した。
混 乱
品川にある有名なホテルで授与式は行われた。赤いカーペットが敷き詰められた会場で、最後の最後に僕の名前は呼ばれ、壇上に上った。営業本部長は虎の子を渡すように、丁寧な手つきで表彰状を僕に差し出した。僕は呼応し、お辞儀をしてから両手で受け取った。 ひとしきりの表彰式が終わると、僕は会場を途中で抜け出しトイレを目指した。拭き上げられた鏡を横目で見ながら通り過ぎ、白い便器にスーツ姿のまま座って、ドアをガチャンと締めた。排尿と排便をするためではなかった。僕はもらった表彰状を再度眺めた。遠藤伸司殿、貴殿は・・と始まっていた。
僕は悲しくなった。 トイレは、人一人おらず、静まりかえっていた。
表彰状は、あっけなく、苦労もあまりせず、獲得できたものだった。健康な人が何の苦労もせずに、手に入れている健康のようだった。素直に有難いものだとは思えかった。見つめれば見つめるほど「保険」という文字は大きくなった。その文字を、消しゴムで消してやりたかった。おまけに、表彰式では、僕の同期がすでにトップセールスとして表彰されていた。
あいつは、間違いなく、ナポレオン以上のことをやり遂げた。
まさに、その瞬間、強烈な怒りがこみ上げた。
衝動を抑えきれず、僕は膝を曲げて、靴底の真裏を向けて便所の扉にミドルキックし、破壊してやろうと思った。
Appetite for destruction
しかし、思いとどまった。僕の手はかすかだけど、震えていた。冷静さは取り戻せなかった。僕はトイレの中で餌食を求めた。目の前で握っていた貰った表彰状だった。この上なく大きな力で縦方向に表彰状を2回破った。声にならぬ声で、激しいコトバで、自分を罵倒していた。
野 心
引き千切られた表彰状は3つになった。そのあと、表彰状を重ねて横へ向けて、また縦方向に3回以上も引きちぎった。ビリッ、ビリッと破れる音で、僕の心は幾分か落ち着きを取り戻した。
1型糖尿病でも何でも出来る
突然、インナーヴォイスが聞こえた。僕を励ましているのだろうか。僕にはわからなかった。
1型糖尿病でも出来ないことはある、と僕はリプライした。
1型糖尿病でも何でも出来る。
僕は冷静さを取り戻していった。そして、僕は大学のヨット部時代にした質問を再度、自分にぶつけた。
HbA1cが上がっても、僕はトップセールスになりたい? or not?
答えはイエスだった。
もくじ
- 第1回 あなた、一生、インスリン注射が必要です
- 第2回 人前で低血糖になるな
- 第3回 就活と見えざる何か
- 第4回 消えたインスリン
- 第5回 消えたインスリン その2
- 第6回 アルバイトの経験
- 第7回 大学での部活
- 第8回 社会人1年目、罹病10年目、マグネットへの羨望
- 第9回 1型糖尿病(23歳、男)の性
- 特別寄稿「被災した糖尿病患者さんへ」
- 第10回 表彰状の行方
- 第11回 トップセールスへの道 ―超速効型の登場と低血糖―
- 第12回 仕事に打ち込む夏 ―データか、センスか―
- 第13回 お酒と血糖値と現実と
- 第14回 恋人ができるまで
- 第15回 低血糖との戦い
- 第16回 徐々に襲いかかる合併症
- 第17回 インスリン注射の早わざ
- 第18回 糖尿病とカンセン
- 第19回 1型糖尿病は僕の性格をも形成する
- 第20回 一生続く不安と、どう向き合えばいいのか
- 第21回 5年後の自分とセールスという仕事
- 第22回 朝の血糖値と覚えてない低血糖
- 第23回 シックデイの苦しみ
- 第24回 1型糖尿病と自律神経と運動
- 第25回 超えられる壁 越えられない壁
- 第26回 1型糖尿病のポテンシャル
- 第27回 心のそこにあるモチベーション