私の糖尿病50年-糖尿病医療の歩み
38.日本糖尿病学会を弘前で開催
最初に計画したのは上野駅から弘前まで寝台列車を走らせることであった。数カ月か前までに計画すれば可能とわかった。次は宿泊のことである。1960年代までは旅行会社も少なく、仙台で学会を開催するにしても医局で宿泊を世話する状況であった。弘前は当時本格的なホテルは一つしかなかったので、弘前市内だけで参加者を収容することはできず、青森市、さらに浅虫温泉、また弘前市に隣接した大鰐温泉から秋田県の大館市まで宿泊していただき、バスで送迎するということにした。
さて学会開催半年前頃、日本糖尿病学会会誌『糖尿病』に「学会をもっと便利な所でやることを考えて欲しい」という内容の意見が掲載された。教室員がそれを読んで知らせてくれた。私が会長になりたいと言って立候補したわけでもない。評議員会の投票で決まったことなので、弘前で開催するのである。教室員は全力をあげて学会開催の準備をしていることを知って欲しい旨の反論をすぐに掲載した。筆者は米国のADAで会長が挨拶するだけでよいのを知っていたので、それが合理的なことはわかっていたが、当時の日本の状況は違っていた。
すでに青森空港はあったが便数は少なく、また天候に左右される時代であった。このように準備したが、参加者はどうにか収容できた。特別寝台列車は走らせないで済んだ。考えてみれば半年も前に予約することなど考えられないことであった。
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青森市の渡辺欽也先生は糖尿病の診療に重点をおかれ糖尿病友の会「うとう会」を結成しておられ、月1回糖尿病新聞「うとう」を発行しておられた。早速その「うとう」紙に糖尿病の話を1971年7月より連載することになって患者さんに読んでもらっていた。うとうは鳩大のウミスズメ科の鳥で青森湾に棲んでいると聞いたが、実際に見たことはなかった。渡辺先生は子供の頃より見ていたので新聞のニックネームにしたのであろう。糖尿病の話を毎月書いていたので時々その編集会議もやった。そして「うとう」の読者を広めるために紙名を変えようということになった。平井一郎先生は膵島からインスリンがこんこんと湧き出すように泉にしようということになった。「いずみ」という名は製薬会社のPR紙の題名になっているので「いづみ」とし、題字は後藤、その絵模様は平井先生の提案で膵島の電顕写真を使うことにし、タブロイド判2頁からB5判6〜8頁とした。
当時は糖尿病新聞や糖友会会報などが10誌以上出て大層盛んであったので、その集会を開き意見交換することを考えた。また学会は社会医学部門というセッションがあって医師、栄養士、看護婦、そして患者も発表する機会があった。このようなわけで自由集会は図2のように
の3つを開催することにした。実際には非常に多くの意見が出て有意義な集会となった。
このように糖尿病新聞が盛んな時であったので、この学会中に号外を発行することを計画した。招待講演をジュネーブ大学のA. E. Renold教授にお願いしていたので、教授夫妻が広前に到着なされたら写真を撮り、それを入れた号外を出すことにした。その号外は図3のように発行できた。
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我々の高血糖ラットについては少しずつ業績が出ていたので動物飼育室でそれを見ていただいた。教授も正常集団から選抜交配だけで高血糖ラットができたことに興味をもってくださった。
Renold教授はその後、糖尿病モデル動物のワークショップLessons from animal diabetesを定期的に開かれ筆者らも招かれた。多くの素晴らしい業績をあげられIDFの会長もなされた。
この他に特別講演を
矢内原昇教授にプロインスリン、C-ペプチド、馬場茂明教授に糖尿病の治療と明日への進歩、榊田博院長に糖尿病者の生涯―継続療養と社会復帰の3先生に御担当いただき参加者は多くの感銘を受けて津軽を離れた。
(2006年02月03日更新)
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