36.国際会議の開催
1. UGDPの発表
第13回日本糖尿病学会年次学術集会は1970年5月21日、22日の両日、熊本市民会館で開催された。その第2日目にテレビや日刊紙がトルブタマイド長期服用者に心臓死が有意に多いという米国12大学で10年かけて行ったUGDP(University Group Diabetes Program)の結果を報じた(
図1)。このニュースは参加者に動揺を与え、また真偽をめぐって話題となった。
UGDPの心臓死は心疾患の多かった1、2の施設に多かったなどの報告もなされたが、その理由は明らかにされずしまいで、近年のテキストにはUGDPの文字も見当たらないようになってしまった。SU剤の心筋への作用、特にK
ATPに対する影響などについて吟味が必要であったかもしれない。このUGDPの報告はSU剤の乱用に注意を与え、特に
No.30 に述べた低血糖事故にも注意を促すことになった。
2. 第1回SDMA開催
わが国では第8回糖尿病国際会議(IDF)を引き受けないことが前年の京都での年次集会時の評議員会で決まったが、国際会議を開きたいという考えをもつ会員は多く、特に近畿地区ではIDFの誘致に積極的な人達が多かった。
熊本での第13回年次集会ではシンポジウムとしてEpidemiology of Diabetes Mellitus in Asian Peopleが取り上げられ、神戸大学 辻 昇三教授がその司会をなさることになって、各国に連絡したところ参加希望者が予想外に多く、年次集会とは別個に国際シンポジウムを開催することになった。ちょうど大阪で万国
博70が開催中でもあった。このようにして辻教授は
図2のような呼びかけをなされた。
このようにしてSymposium on Diabetes Mellitus in Asia, 1970(SDMA)が計画された。そして熊本の第13回年次集会に引き続いて、5月24日、神戸市商工貿易センターで国際シンポジウムが開かれた。Pima IndianのP. Bennett博士、インドネシアのSukaton教授らも発表し
た。
筆者らはこのシンポジウムで、踵に磁石を付けて感応コイルを流れる電流を心電計で増幅するLawsonの方法を用いてアキレス腱反射(ATR)を分析した結果を発表した。
図3のように健常者ではアキレス腱を短時間で連続して叩いても反射が起こるのに対し、神経障害の始まっている人では時々休んでまた起こるのを菊池 仁学士(当時)が観察していたので、それらを発表した。
図4 SDMA'70の記録(258頁)
258頁
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図5 Joslin 11版(中央)、訳書(左)
1978年、1103頁
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SDMA1970は大成功であった。これがわが国での糖尿病の国際会議の始まりであり、1994年の第15回IDF開催への第一歩となった。会議の記録は
図4のようにB5変形版258頁の本として台糖ファイザー社の協力を得て1万8,000部Excerpta Medica社より出版され、全世界の研究者に配布された。
3. ジョスリン日米合同糖尿病教育研修会議
1971年4月より弘前大学第3内科の診療が始まった。研究室にはまだ機器らしいものも並んでいなかった。そこで皆でJoslinの本の翻訳をやってみようということになった。廣川書店から出版することも決まり、このことについてJoslin Clinicの主任Marble博士に手紙を出した。Leo P. Krall博士より了承の返事があったが、同時にJoslin Clinicでは海外でもPost-Graduate Lectureをやっているので、ぜひ日本でもやらないかという申入れも書かれてい
た。
これはぜひやらなければなるまいと思い、学会理事会に話して開催の諾否を決めるので待って欲しいと返事を出した。学会理事会はIDFを断ったばかりだし開催するはずはないと考え、一方で京都府大1内の福井 巖助教授と教授に就任間もない神戸大学2内の馬場茂明教授に相談した。2人とも開催賛成であった。一方SDMA'70から5年後のSDMA'75をどうするかという問題もあった。筆者ら福井・馬場の3名は何度も相談をし、そして、1975年9月9日〜11日京都宝ヶ池国際会議場でSDMA'75、9月13日、14日に大阪商工会議所国際会議ホールで日米合同研修会議を開催することになった。
SDMA'75では、
会 長 | 馬場茂明 |
副会長 | 福井 巖、後藤由夫 |
顧 問 | 阿部 裕、和田正久 |
実行委員 | 赤沢好温、林 泰三、奥野巍一、繁田幸男、谷口 洋、垂井清一郎 |
事務局長 | 佐古田雅弘 |
日米合同研修会議では、
名誉会長 | Charles H. Best、葛谷信貞 |
会 長 | Alexander Marble、和田正久 |
副会長 | 馬場茂明、後藤由夫 |
事務局長 | 繁田幸男 |
総 務 | Leo P. Krall |
のメンバーであった。
双方とも大成功でそれぞれに下記のような記録が出版された。
図6 SDMA'75記録
310頁
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図7
1977年、181頁
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4. 太田病院に糖尿病センター
ジョスリン・クリニックより来日した講師はMarble博士、所長のRobert F. Bradley、教育主任のLeo P. Krall、副所長のJ. S. Soeldner、助教授のA. R Christliebの5名であった。講演後、仙台でも講演をお願いし、Bradley、Krall博士らが仙台でもお話いただいた。
途中、郡山市で下車し、太田病院で建設中のささはら病院の糖尿病センターを見てもらうことにした。その施設は筆者の意見と阿部祐五博士の情熱が太田辰雄理事長を動かし、患者用講演室と運動療法室を造ってくださったものであった。内装はこれからというコンクリートの建物にヘルメットをかぶってKrall博士らを案内した。その大きさに驚き、どうしてこの理事長は理解があるのかと聞かれた。ジョスリン・クリニックには患者用の講義室も運動療法室もなかったのである。その年の10月15日ささはら病院新築落成記念式があり、筆者は「文明と病気と長寿」の題で記念講演を担当した。
(2005年12月03日更新)