私の糖尿病50年-糖尿病医療の歩み

34.糖尿病になる動物を作ろう

1. 遺伝子がなければ糖尿病は起こらない
 1960年代までは糖尿病は糖尿病遺伝子をもとに発病するものと考えられてきた。したがって遺伝子がなければ糖尿病は起こらないわけである。ではその遺伝様式は?当時は子供数が多い時代で、プライバシーもうるさくなかったので、その分析は容易であった。多くの糖尿病家系の分析から、劣性遺伝、優性遺伝、伴性遺伝、小児糖尿病は劣性で成人は優性遺伝とか多くの説が提唱された。その中でもっとも支持されていたのはPincus, Whiteの劣性遺伝説であった。彼らは小児糖尿病の親の分析からその結論を得たもので、1950年代のPrediabetesの研究もこの考えをベースにしていた。筆者らも夫婦糖尿病の子供について、GTT正常の時期、境界型の時期に異常はみられないか研究した。その結果は No.1920 に述べたように、50歳以後はすべて糖尿病となり、GTT正常の時期でもインスリン分泌低値、インスリン低血糖時の血漿GH反応の低値、網膜電図(ERG)の律動様小波の消失などが認められた。皮膚や腎生検で毛細血管基底膜の肥厚の有無などを確かめたいところであったが、まだ病気にもなっていない健康な人達にその検査を行うことはできないわけである。糖尿病の成因を研究する場合の人間を対象とすることの限界を知ったわけである。
 では人間と同様に糖尿病になる実験動物はないか。チャイニーズハムスター(1959、1964年)、サンドラット(1964年、1967年)、そしてわが国ではKKマウス(1967年)などがあったが、採血や飼育の容易さなどの点でそれらを利用しようとは思わなかった。そして以前から抱いていた作業仮説()を実験してみようという気持ちが強くなった。

図 糖尿病ラットを作る作業仮説
Pは基礎集団、F1は最初に生まれる世代、縦軸は血糖和の頻度
GTTを行い30分毎に120分まで採血し各時点の5つの血糖値の和(血糖和、図の横軸)の高いものを選び交配した場合に、血糖和の頻度分布は遺伝子がなければ、糖尿病が起こらないときは左側のように血糖和の分布は変わらない。右側のようになれば糖尿病ラットが作れる。

2. GTTを指標に選抜交配して作れないか
 ラットにGTTを行い少しでも異常のあるラットを交配して血糖がより高いラットを作れないかやってみよう。というわけで実験にとりかかったのは1967年頃、東北大学の古い実験室にいた頃である。当時は、糖尿病遺伝子がなければ糖尿病は発症しないという考え方であったので、一緒にやろうという同僚はいなかった。そこでラットを40匹ほど購入して、実験補手の熊谷洋治さんとともにこの実験を始めた。当時の教室の実験室は天井は高く壁は厚く頑丈なビルであったが、1階にあった私達の実験室の水道の配管の隙間から野生のネズミが入ってくる状態であった。窓際を走る一枚板の造り机には引き出しが2つずつあって、2つが1人分であったが、引き出しの後が空洞になっていて、そこをネズミが走るようになってしまった。小動物の飼育室は4畳位で、ラットはケージに入れて固形食で飼育した。動物飼育室は研究室から2m位離れて犬小屋とは別になっていたが、やはり下水道管の隙間からネズミが入ってくる状況は同様であった。ラットのGTTは手馴れていたので問題はなかったが、ネズミが固型飼料を食べに侵入してくること、そしてもっと困ったのは、ケージに入っているラットを襲うようになったことであった。
 当時筆者は東北大学の学生健康管理センター川内分室の室長をやっていたが、1967年頃より学園紛争が起こった。現在からみると、これは中国の文化大革命に触発されて欧米でも起こった学園紛争である。それが東北大学でも起こり学生と教授団の団交が行われるようになった。20〜30名の学生が数名の教授と団交する。学生はスピーカーのボリュームを上げて話すのに教授側はマイクもなく細々と話す。学生は交代で休んでくるのに教授側は何時間も話し合う。疲れで血圧は170以上、脈拍も90以上となっているので夜中になる前に呼び出されてドクターストップをかけなければならないことになった。大学も騒然として落ち着きがなくなってきた。大学は静かで一般社会と距離をおくところである。思索するところである。当時はそんな雰囲気が失われかけていた。時間的にも研究に打ち込める状態ではなくなったので、ラットの交配実験も中止した。この程度の規模では結果を望めないことも―そのとき思ったことである。
3. IDFの日本開催を断りに行ってほしい
 第8回国際糖尿病連合(IDF)会議は1970年の夏にブエノスアイレスで開かれることになり、その次の開催国は日本という風評が強くなっていた。そこで1969年7月京都で開催された第12回日本糖尿病学会総会の評議員会では、日本で開催を引き受けるかどうかが大議論となり会議は2時間以上も長引いた。引き受けないという意見がわずかに多く、葛谷信貞理事長が日本代表として出席することが決まった。ところが年が明けて、春が近づくと葛谷理事長が胃出血を起こされ出席不可能となった。そこで第8回IDFの早期糖尿病のシンポジストに指名されていた筆者に日本を代表して断ってきてほしいという役目が廻ってきた。理由は何と言おうかと相談して、学園紛争なら理解してくれるだろうということになった。さてIDFの会議で話すにしても根回しが必要と思いニューヨークのR.Levineに話すことにした。そこにはアルゼンチン出身でシンポジウムを司会するCamerini博士もいるので好都合と考えた。案の定、次期開催国には日本という声が高かった。このとき手を挙げれば後に誘致の苦労はなかったわけである。日本が断ったので、ではどこかとなった。手を挙げたのはインドであった。だが他の国の人達はインドには行きたくないので賛成の声は上がらなかった。結論はヨーロッパのどこかでやろうということになった(その何年か後に日本に誘致しようということになったときには、各国に根回ししたり決定までにずいぶん長くかかった。機を見逃さないこと、機の判断を誤らないことが何事にも大切である)。
4. 弘前大学で再度挑戦の時機を待つ
 IDFから帰った年の秋に弘前大学に新設された第3内科の教授となることに決まった。家を新築したばかりであった。さて教室はできたが医局員はいない。しかし講義はできるだろうし、学生への顔見せにもなるだろうと松永藤雄学部長(第1内科教授)が配慮してくれて、先生の時間を2回ほどいただいて糖尿病の講義をした。特に当時新知見だった我々のPrediabetesの話をした。糖尿病には遺伝が関係することを話した。また、入局してすぐに助手になれるのは今回しかないだろうということも宣伝した。大学院に入りたい人が3名(定員2名)、その他に入局希望が5人ほどいた。その中に遺伝のことをやってみたいと希望してきた学生もいた。柿崎正栄君である。
 翌年の4月から開講し、教育、診療、研究が始まった(その後のことはNo.27以後に記した)。教室が始まったとはいっても全てが新しいのでまず診療から始めなければならない。ラットのことは時機をみてと考えていた。

(2005年10月03日更新)

※ヘモグロビンA1c(HbA1c)等の表記は記事の公開時期の値を表示しています。

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