私の糖尿病50年-糖尿病医療の歩み
16.日本糖尿病協会の出発
1. 糖尿病教室がはじまる
1950年以後は糖尿病患者が次第に増加し、糖尿病を得意とする大学病院や大都会の病院では、糖尿病の診療日をきめて血糖検査をすることがはじまった。当時は中央検査部がなく血糖検査はすべて担当医師が耳朶から血液0.1mlをハーゲドロンピペットで吸い取り、それから最短40分かかって測定していた時代であった(本シリーズ No.1 参照)。
朝食をとらずに来院するので患者さんたちは朝早くから医師の来るのを待っていたわけである。待っている間にお互いの体験談や自慢話に花が咲く。こんな風景をみていた医師は治療には正しい知識、情報が何より大切と気づいて1955年頃より各地に糖尿病教室と患者さんたちの集まりができた。糖尿病の経口薬も市販されて治療も活気づき、1958年には日本糖尿病学会が結成された(本シリーズ No.9 参照)。
2.国際糖尿病連盟(IDF)に加盟
図1 IDF のシンボルマーク |
3.全国患者の会が必要となる
このようにしてレイマン組織としての全国患者の会(日本糖尿病協会、以下日糖協と略)をつぎの第4回国際会議(1961年 ジュネーブ)までに作らなければならないことになった。学会の国際学会への加盟の条件なので、学会の役員が相談し、主な友の会の役員を世話人として日糖協設立準備会ができた。
事業内容としては講演会や会報の配布などが考えられ、会則の原案は今枝常男氏(当時、参議院法制局、東京大学第三内科友の会)が作成して下さった。何度も設立準備会が開かれた。友の会を全国にさきがけて作ったのは1959年6月熊本大学体質研究所内科の三村悟郎先生、柏田芳市氏らの熊本かいどう会で、ついで翌年4月に九州大学第二内科の平田幸正先生、庄野光隆氏によるあさひ会、7月には京都大学栄養の榊田博先生、知見鬼三氏により京都みどり会、9月には虎の門病院に葛谷信貞先生、清水金五郎氏により葵会、というように次々に発足した。
1961年2月に日糖協設立準備会が開かれ会則が審議された。それから9月上旬までに4回の設立準備会が開かれた。筆者は米国での研究を終えて1960年11月30日に帰国したので61年からの日糖協の発足をみることができた。
4.日糖協設立総会
図2 創立総会 |
図3 山本為三郎初代会長
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図4 清水金五郎初代理事長
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5.会誌さかえの発行もはじまる
図5 会誌さかえ 第1号
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・・・・・・一人一人の患者について見ると患者の医師に対する信頼と協力とがこれに伴わなければ十分その目的を達成できないことはいうまでもない。見かたによっては病を克服するのは医師と患者との協同作業と見ることもできる。糖尿病のように治療に長い期間と絶えざる努力とを必要とする病には特にこのことが痛感される。この協会と糖尿病学会とはいわば集団としての患者と医師との関係に似たところがあると自分は考える・・・・・・とある。米国の生命倫理に関する大統領委員会報告書(1983年)に、医療は医師と患者の協力による共同作業であり、医療の主体は患者にあって、患者が医師と協力して病気を治す、という趣旨のことが記されているが、小林先生はそれより20年以上前にそれに気づいておられたことになる。 また山本為三郎会長は。
・・・・・・昔、老子が「生命はわが中にあり、天にはない」といっております。小林先生のお話で思い出しました。自分の力で守るべきだというのです。今日、医学が進歩したという陰におのおのが自分の命を粗末にしているのではないでしょうか。 私が40年間の糖尿病の往歴をもっていながらおかげで健康でおりますのも、諸先生のご指導によるものでもありますし、お教えをある程度守りましたためだと思います。 新しい学問と経験の上にたてられた指導を一層厳格に守って幸福にすごそうではありませんか。
図6
このマークは日糖協が法人化されるまで用いられていた
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(2004年04月03日更新)
※ヘモグロビンA1c(HbA1c)等の表記は記事の公開時期の値を表示しています。
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