DMオピニオン

インスリンとの歩き方
著/遠藤 伸司

2016年04月28日

第9回 1型糖尿病(23歳、男)の性

1型糖尿病(23歳、男)の性

 その日、糖尿病の診察のために会社は休みだった。

 実家暮らしの僕の四畳半の部屋には、カーテンがなかったので陽の光は、すでに床の赤いカーペットまで届いていた。大量の眩い光のおかげで、僕は部屋にある全ての物を認識することができたが、ベッドに寝ている僕のプライバシーは磨りガラスによって守られていた。まだ仰向けに横たわったままで、僕は天井のしみを見ていた。頭は空っぽで、まるで真空パックに入れられたみたいだった。何も生み出すことはなかった。ただ、今日は会社がないという解放感だけは認識できる。さて。僕はおもむろに、ベッドの下に隠し置いてあった少々過激な雑誌を手に取る……。

いつもの診察

 病院に行くことが急に面倒くさくなった。母親に頼んで薬だけもらってきて貰う案が浮かんだが、気怠くなった重い体に鞭を打ってベッドを這い出た。

 「遠藤さ〜ん、どうぞ〜」

 いつも混んでいる白い巨塔の待合所で名前が呼ばれた。今日のドクターの声は明るいトーンだった。僕は薄いピンクのカーテンを開けて診察室に入り椅子に腰をかけた。

 「遠藤さん、どうですか。調子は」

 仕事で初めて1台の車を売って、それ以降も毎日飛び込み訪問の連続で、感情を失くしてマシンのようにノルマの軒数をこなし、帰宅は遅いときには深夜の2時くらいで、朝は8時に出社しています。食事のほとんどが外食で、運動は会社の車を洗車するくらいのものです、と僕は答えた。

 「今回のHbA1cは8.3%(2016年の基準では8.7%)でした。尿には、蛋白も出てないから合併症も気にしないでいいと思います」

 HbA1cが8.3%。血糖値コントロール目標7.0%から見れば「不良」だ。けれど仕事と共に活きる1型糖尿病の僕の現実に照らせば「中の下」ぐらいだった。

 ふと、今朝の出来事を思い出す。平均8%台のHbA1cでも僕はインポテンツになっていなかったので、今のところは「相関関係はない」と思えた。むしろ、糖尿病との相関関係というよりも、1台でも多くの新車が売れること、つまり仕事の達成度との関連の方が、深く関わっているようだった。お客さんの所で新車契約をした帰り、急に僕の下半身が元気になるのに気がついた。

混 乱

 1型糖尿病を発病してから10年と数ヶ月後くらいの診察だった。合併症の状況については、ほぼ毎回の診察で僕はドクターへ尋ねたし、ドクターもきちんとリプライしてくれた。

 「蛋白も出てないから合併症も気にしないでいいと思います。」120回以上の診察で、ほとんど同じやりとりを繰り返してきた。

 10年も経つと、合併症は、まるで対岸の火事のようになっていった。合併症とは、医学書の中の1型糖尿病で起こるものであり、僕の体の中では、永遠に起こらないように思えた。蛋白は出ていない……という事実は、今朝の出来事による罪悪感を少し和らげくれた。

 「それはよかった」と、僕は機械的にドクターに答えながら、ふと、小さな、小さな、黒いゴミ粒みたいなものが、僕の目の中に浮かぶのを意識した。

 「それと、遠藤さん、夜の生活は大丈夫ですか?」

 突然、主治医は僕の今朝の行為を見ていたかのように、僕に聞いた。僕は控えめに混乱した。

思考停止

 ドクターカラ、キワドイシツモンガトンデキタ。
 ドウシマスカ?

 → コタエル
 → ニゲル
 → カンガエル

 僕は、しばしカンガエルを選択した。

 普通の、健康の、23歳の、男(いや女性も)だったら、かくも白い巨塔の診察室で、社会的ヒエラルキーの高いドクターと、ヨルノセイカツについて話をすることはないだろう。朝から、自分で、インポテンツの合併症検査?も兼ねて、自慰行為をすることはないだろう。自分の性生活、いや自分の将来にだって、不安を感じることはないだろう。僕は、机の上に置いてあった聴診器になってしまいたかった。

 診察室の薄いカーテンの裏で誰かが通る音が聞こえた。

 なんと答えればいいのだろうか。

 はい! もう元気すぎて、困っています。今朝も……。白い巨塔の診察室で、そんな恥ずかしいことを言えるわけないじゃないか!

 そして、僕は我に返った。そうだ、ドクターの質問は「夜の生活は大丈夫ですか?」だった。

 「大丈夫です」と恥じらいを隠しながら、ぎこちない笑顔で僕は答えた。

 ドクターは、特に重ねて質問することもなかったので、ありがとうございました、と伝え、席を立って、踵を返し、カーテンを開けて診察室を出てきた。

 しかし、ドクターの質問は、早く帰ろうと会計待ちをする僕の耳の奥に、まだ、そっとこびりついていた。それは、かつて、高校生や大学生だった僕が、授業を受けたときに、そっと心の奥底へ入ってくるような先生や教授の言葉に似ていた。

 

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