わが友、糖尿病 トップページへ メールマガジン無料登録

エチオピアへの旅 2 [観光編 / 後編] 写真付

2004年11月
■ エチオピア連邦民主共和国
人口:約6500万人
首都:アディスアベバ
アフリカ北東部に位置するエチオピアは、農業(メイズ、テフ、ソルガム、大麦、コーヒー等)を主要産業とする国です。1人当たり国民平均所得は100ドル。
エチオピア料理レストラン・珈琲道

伝統的なエチオピアスタイルレストラン。

伝統的なエチオピアスタイルレストラン(厨房)。

日本の茶道のように伝統的な手法で珈琲を入れる“珈琲道”。コーヒーの原産地は、エチオピアのカファと言われている。

伝統的なエチオピア料理、インジェラ。テフという穀物を発酵させフライパンで焼いた蒸しパンのような食物。酸味が強い。

伝統的なエチオピア料理、インジェラ。テフという穀物を発酵させフライパンで焼いた蒸しパンのような食物。酸味が強い。インジェラ調理の様子。
 昼食時間になり、村の近くにある、エチオピアスタイルレストランへ入った。中は、カラフルな布が敷かれた椅子と籠で編んだようなテーブルが置かれ、床には干草が敷かれている。

 レストランのお嬢さんが、日本の茶道ではないが、珈琲道なる伝統的な作法に従ってコーヒー豆を炒るところから始まり、コーヒーを入れてくれた。炒ったコーヒー豆が香ばしく部屋に漂っている。素手でインジェラを食べるということで、ウエイターさんが石鹸と水と洗面器を持ってきてくれて、それで手を洗った。水道はないらしい。

 トイレが近い私は、ホテルを出発してから午前中一杯行く機会が無く、またコーヒーを飲んで水分を取ったこともあり、行きたくなった。

 トイレはどこかとコーヒーを入れてくれたお嬢さんに尋ねると、レストランの建物の裏手の非常に急な階段を登り、離れのようになった建物を指差しながら「ここがトイレだけど、あなたには汚すぎて使えないと思うから、ここでしてしまいなさい」と言われた。

 内心戸惑いを覚えながらも、とりあえず「分ったと」返事をし、お嬢さんが帰っていくと、どれほど汚いものか好奇心がそそられた。ラテンアメリカ諸国、バングラデシュ、パプア・ニューギニアなどを旅した時に汚いトイレでも使用した経験があり、少々の汚さなら・・・とタカを括っていたのだが、やはり言葉では説明できないほどの汚さであった。糞便を通じての感染症の心配も頭を過ぎり、忠告に従い、雨の中、野外ですることにした。女性であることの不便さを感じさせられる瞬間であった。

 テーブルに戻るとインジェラが出てきた。今まで食べたことのある、ロールケーキのように巻かれたインジェラではなく、直径50センチもあるかと思われる大きなお皿の上一杯に一枚のインジェラが敷かれ、その上に野菜、鶏肉、ヤギ肉、豆と何種類かのシチューが乗っている。インジェラを円の外側からちぎって、シチューを巻いて食べるのだとエアルミス氏が手本を示してくれた。インジェラとシチューはお代わり自由ということで、豆シチューと鶏肉シチューをお代わりした。

 食後に再びコーヒーを飲み、一休みしたところで、順番は逆転してしまったのだが、インジェラを作っている厨房を見せてもらえると言うことで、厨房へ行った。プラスチックのバケツの中に牛乳のような白い液体状の発酵したテフが入っており、それをコップですくって、薪をくべたコンロの上にある直径50センチほどの大きなパン(浅鍋)の上クレープを作る時のように拡げるように入れ、大きなフタをして数分たつとホカホカのインジェラが出来上がる。厨房の中は、煙でときおり目が痛くなるのだが、それでも炭火焼のあの香ばしい香りが漂っている。何世代にも渡り人間に刻み込まれた嗅覚・味覚というものは、ガスや電気コンロではない天然の火から作られるものに反応するようにできているのかもしれない。

フライトキャンセル・ラリベラに戻る


エチオピアの伝統芸能


仏教で言えば木魚? 太鼓のリズムに合わせ、賛美歌というよりも、むしろお経に近い響きのチャンツを歌う。


伝統的なエチオピアスタイルレストラン。
 生きている博物館とも言える、ラリベラとの別れが惜しく思われる中、空港へ向かう。荷物チェックも済ませ、飛行機への搭乗を待っているのだが何か様子がおかしい。

 空港にはアナウンス設備も無く、係員が口頭で説明している。どうやら、アジスアベバを出た飛行機が途中のゴンダールでエンジントラブルを起こし、部品をアジスアベバから取り寄せているとのことである。エチオピア航空は定刻に飛ばなくて当たり前とこの時は、楽天的に考えていた。ところが、待てども待てども到着する気配は無い。係員に尋ねても同じ答えが返ってくるのみである。

 退屈しのぎにと思い空港を歩き回るも、土産物屋が1件あるだけで、それもさっさと店じまいし、喫茶店・レストラン・売店は無い。飛行機を待つ乗客同士で話すことぐらいしか時間つぶしができない。

 欧米人の観光客も多いのだが、結構、エチオピア系アメリカ人、米国在住のエチオピア人も多い。そんな中、一人の日本人青年がいた。聞くと青年海外協力隊で、ボツワナにコンピューターソフトのエンジニアとして派遣され、任期を終えて日本に帰る途中旅をしているとのことである。

 ボツワナと言えば、数年前、“日本の国債の格付けがボツワナ並み”ということで話題になったが、彼の話ではダイヤモンドの鉱物資源に恵まれ、金銭的に豊かな国であると言う。ダイヤモンドで得た豊富な資金を利用し、優秀な労働者を外国から招いているため、現地の人たちの勤労意欲・向上心・勤勉さといったものは感じられないと言うことであった。「外国人労働者は定着せず、本国に戻ってしまうし、ダイヤモンドが掘りつくされたときに備えて、産業を育成し・・・・」と彼が説明しても理解してもらえず、折角、彼が技術を伝授しに行っても効果はあまり無かったという話であった。ボツワナと言えば、隣国ナミビアにまたがるカラハリ砂漠に住むコイサン族(以前は“ブッシュマン”と呼ばれていたが、蔑称とされる)が思い出される。

 エアルミス氏が近づいて来て、「朝、ホテルを出発する前、子供達にあげるといっていたビスケット、まだ持っているか?」と訊かれた。機内食で出されたクラッカーを低血糖用補食としてとっておいたのだが、大分溜まってしまい、日程も残り少なくなり、荷物を減らしたいと思ったため、ホテルを出る前に「子供達がいたらあげたい」とエアルミス氏は覚えていたのだ。他の顔なじみのガイドや運転手達が昼食をとっておらずお腹をすかせているということであった。一人頭、一枚になるかどうか分らないのだが、皆、とても喜んだと言っていた。キリスト教のミサで行われる、キリスト様の血として赤ワインを飲み、肉体の一部としてクラッカーを食べる儀式で、「熱心に祈れば、奇跡が置き、一切れのパンが空腹の万人に行きわたる奇跡が起きる」と言われたことがあるのだが、それを思い出した。韓国人学生から貰った飴といい、機内食でとっておいたクラッカーといい、今回の旅は低血糖用に備えてキープしておいたものが喜ばれている。聖地ラリベラでは奇跡が起こるのかもしれない。

 6時間も待たされた挙句、結局、その日は欠航となり、航空会社の負担で宿へ戻ることとなった。政府系のエチオピア航空の系列で、やはり政府系の宿である、ロハホテルへ再び戻ることになった。狭いマイクロバスに待たされた観光客が大荷物と共に乗せられ、“懐かしの街”へ戻っていく。

 夕方、アジスアベバへ着いたら翌日の打ち合わせをすべくアマレ先生に連絡することになったのだが、予定が大幅に狂ってしまい、もし、明日のフライトも大幅に遅れること、いや、キャンセルになれば、アマレ先生に会うことはおろか、日本へ帰ることも難しくなってしまう。

 ホテルへ着き、エアルミス氏にアマレ先生と連絡を取りたいということを伝えると、彼の所属するエージェントのアジスアベバの事務所に連絡し、そこからエアルミス氏に連絡を貰うということになり、アマレ先生からの連絡を待った。ホテルには電話が一つしかなく、なかなか空かないのだが、アマレ先生からの連絡が来て、事情を説明し、明日、空港に着いたら直ぐに連絡することにした。 空港で待ちぼうけを食ったもう一人の日本人である協力隊員の彼が、アジスアベバにあるJICAの事務所に連絡しなければならないのだが、ロビーでここの電話はこのエリアにしか通じないと言われてしまったと途方にくれていた。私がアマレ先生と連絡が取れたことを話し、エアルミス氏を通してホテルの係員に交渉してみるように勧めてみたところ、連絡が取れたと言って喜んでくれた。ロビーではたった一台のテレビで、CNNニュースが放映されており、曽我ひとみさんがインドネシアでジェンキンス氏と娘さん2人との再会シーンが放映されていたがニュースの内容は「日本の外務省の予定外出費として、ジャカルタで曽我ひとみさんと家族が再会するための費用、イラクで人質になった日本人の救出費用」内容であった。

 夕食は、エアルミス氏と協力隊の彼と共にとった。昨晩と違い、ホテル側としては予定外の客を受け入れたため、レストランは殆ど空席がない。しかしながら、昨晩、レストランで会った人たちが皆いるのも不思議である。協力隊の彼の話では、今晩、伝統芸能ショーがあり、料金は15ドルと教えられたとのことで、見ることにした。

 レストランの外に椅子が並べられており、一番前の席に座った。夜、陽が落ちると外は非常に寒く、フリースを着ていても足が冷えてくる。

 白い民族衣装に身を包んだ数人の人たちがやってきて、太古をたたき始め、歌い始め、踊り始める。竪琴のような形で弓を使って演奏する楽器の奏者のソロ演奏があり、幕間の喜劇と思しき笛を吹きながらの語りと途中から女性も加わり2人で何やら会話をしている。時折、エチオピア人の観客は笑うのだが、私達外国人は、時たま見せる滑稽な動きのときに笑うのみである。 観客も一緒に踊り、閉幕となる。

 部屋へ帰る途中、中庭へ出てみると、星が非常に綺麗に輝いている。日本で見慣れた星の位置と異なり、また、日本では明るすぎて見えない暗い星もくっきりと見えるため、なかなか星座が見つけられない。ようやく、カシオペヤ、北斗七星と馴染みの星が見つかった。

再びアジスアベバへ

 翌朝、再びラリベラの空港へ向かうバスに乗り込んだのだが、協力隊員の彼と「今日もちゃんと飛ぶか心配ですねぇ」と話す。

 空港へ着き、予定よりも1時間遅れてラリベラを発った。昨日やはりフライトキャンセルとなったアジスアベバと反対方向にあるアクスムへ行く人たちも一緒に乗せて行くため、遠回りしてゆくことになる。

 アマレ先生からは、12時までしか時間が取れないと言われていたので、本当に心配で仕方が無かった。アクスムに着陸すると、やはり協力隊の仕事を終えザンビアから日本へ帰る途中に旅行をしているという協力隊員の彼の仲間が乗ってきた。世の中、狭いものである。

 どうにかこうにかアジスアベバへ着き、車を飛ばし、アマレ先生の待つヤカティット12病院へ向かう。アジスアベバの街には数多くの記念碑があり、またヨーロッパで見られるような荘厳な石造りの建物が数多くあり、エアルミス氏が色々説明してくれるのだが、タイムリミットの12時が刻々と近づいており、気が気では無く、ほとんど耳に入らない、ヤカティット12病院に着くとアマレ先生が門のところで出迎えてくれ、エアルミス氏と一旦分かれた。時間が12時近くのため、基本的に午前の外来診療時間は終わりだという。アマレ先生も時間を1時まで延長してくれた。まずは、アマレ先生の上司であり、同病院の医科部長に当たるアーメッド先生の部屋へ案内される。途中、看護部長さんと看護副部長さんに会い、紹介された。

 アーメッド先生からエチオピアの医療事情・同病院の歴史及び機能について説明を受け、糖尿病事情についてアーメッド先生とアマレ先生に質問する。

 質問は尽きず、名残惜しい気持ちを押さえて、病院を後にすることとなった。エアルミス氏との待ち合わせ場所であるヒルトンホテルまでアマレ先生が自家用車で送ってくれた。アマレ先生も国を代表する病院の医師で、エチオピアでは超エリートに属すると思われるのだが、乗っている車は、ポンコツ車寸前のカブトムシ型のフォルクスワーゲンで、よく分解してしまわないものだと関心してしまうほどである。子供の頃、皆、よく“フォルクス・ワーゲン”ではなく“ボロクソ・ワーゲン”と言っていたのだが、失礼ながら、ピッタリの表現だと思ってしまった。それでも、自家用車を持てる人自体、エチオピアでは本当に極一部の限られた人たちだけなのである。

 乗っている車だけから判断することは、間違っていることは承知しているが、同じく国を代表する病院の超エリート医師であるガーナのビーチャム先生が乗っている車はフォード車で、日本で普通に見かける程度の1600ccの車であったことを考えると、GDPからも判断できる国の経済状況を反映していると思えてしまうのだ。

 確かに首都の街を走っている車の古さのレベルが全然異なる。車、犬を見るとその国の経済事情を何となく感覚的に判断できてしまうものである。

 話をしていて、エアルミス氏の兄もヤカティット12病院で産婦人科医をしているということで非常に驚いた。ヒルトンホテルでバイキング形式の昼食を済ませ、午後の観光に出かけた。三位一体教会、国立博物館、聖ギオルギス教会、トラベルエージェントのオフィス、マルカートを訪れた。

 三位一体教会も聖ギオルギス教会も近代になって建てられた教会ということで、ラリベラの教会と比べれば、外側の造りも内側の造りや置かれている絵画や彫像もヨーロッパの教会と変わり映えはしない。ただ、靴を脱いで中に入らなければならない点、太鼓のリズムでチャントを歌うと言う点は、やはりエチオピア的である。どちらの教会にも非常に熱心な信者の人たちが、教会の壁の下の地面に跪き大地への接吻をし、教会の壁にも接吻をしながら、教会の建物を一周している。

 三位一体教会は、イタリアの支配に抵抗して戦死した人たちのお墓がある。聖ギオルギス教会には、小規模ながら鐘楼を持つ別館があり、ハイレ・セラシエ皇帝の王冠・衣服・使用した道具の他、絵画が何点か置かれている。中は、真っ暗で、別料金を払わなければならず、案内人が電気をつけては、消してと言う状態で見学した。

 国立博物館では、世界最古の人類の化石と言われる、通称“ルーシー”の化石(展示されているのはレプリカ)が展示されている。エチオピアの歴史が、ルーシーの時代から人類の進化というレベルから順に紹介されており、美術品・手工芸品なども置かれ、今なお伝統的生活を守り続けている少数民族の文化も紹介している。ただし、女性用化粧室は、水洗トイレではあるものの、使用するのは躊躇する汚さであった。

 エアルミス氏の所属先、つまりヤレド氏の経営する旅行会社のオフィスを訪ねた。2階建ての雑居ビル風の建物の中に色々な事務所が入っている。ヤレド氏のオフィスは6畳ほどの広さの一室で、机が3つほどあり、パソコン、FAX,電話のほか流し台、給湯設備もあり、月並みの事務所である。スタッフはヤレド氏とエアルミス氏だけで、本当に小規模な旅行会社である。エチオピアは歴史的な名所旧跡・美しい自然といった観光資源に恵まれ、外国人観光客を沢山誘致し、ツーリズムを発展させたいということから、今後の発展につなげるため、今回のエチオピア旅行の印象を我々のサービスも含めて何でも率直に話して欲しいと言われた。

 私自身は、あまり観光地化されておらず、伝統的な生活が生きていて、人々のモラルも高く、治安も非常に良いエチオピアは非常に魅力的な観光地であることを述べた。日本に帰り、女性が一人で、しかもインスリンを注射しながらでも無事に旅行できたことを糖尿病関係者に伝えれば、きっと「ならばエチオピアに行ってみたい」と思う日本人も多く出てくると思うと答えた。ただ、言葉の問題があり、若い世代は、若い時から海外へ行く機会に恵まれ英語に不自由しない人たちが増えているが、英語ができないことで躊躇する人が多くいることは否めないことから、日本人観光客を誘致するためには、日本人または日本語の出来るスタッフを採用した方が良い提案した。

 ヤレド氏曰く、日本人が一人来ると、氏の旅行会社だけではなく、交通機関・宿泊施設・飲食店・土産物屋も含めて多くの人たちが潤うので、是非、日本人を多くつれてきて欲しいといわれた。これだけ、世界の歴史に大きな影響を与えているにも拘わらず、なぜかエチオピアの歴史は日本の世界史の教科書にはあまり登場しないのも日本人にとって観光地としてあまり馴染みの国である原因になっているのかもしれない。

 別れ際、既に挽いてある本場エチオピアコーヒーの豆をお土産にくれた。とても香りが良い。今回の旅にあたって、心配をかけたコーヒー好きな両親への土産とした。

 マルカートへ向かう途中、イスラム教徒の居住地区とイスラム教モスクの脇を通り過ぎた。今回の旅で実際にエチオピアを訪れるまでは、正直なところ、恥ずかしながら、エチオピアはイスラム教徒が多数を占めるのかと思い込んでいた。しかし、実際にイスラム教徒は人口の3割程度で、残りの7割はキリスト教徒である。エアルミス氏の話では、エチオピアではイスラム教徒もキリスト教徒も互いの文化を尊重しており、対立や緊張といたものは全くなく、平和的に共存しているということである。昨今、キリスト教徒(ブッシュ大統領を中心とする米国とその“同盟国”)対イスラム教徒(ビンラディン氏のほか過激なテロ行為に訴える人々のいるアラブを中心とする国々)の対立という構図が出来上がりつつある中、エチオピアの人たちのように本当に皆が神様というものを熱心に信じるのなら戦争というものはなくなるのではないかと考えてしまうのは、あまりに幼稚な発想なのだろうか。

 マルカートをゆっくり見て回りたかったのだが、時間がないということで、土産物屋を数件回った。アムハラ語のアルファベットの書かれたTシャツや民族衣装、革製品、エチオピア正教のイコン、藁のような植物の茎で編まれた蓋付のザルの様な入れ物・・・・どれも皆素敵なものばかりで、片っ端から買い占めたいくらいであった。

食事を受け付けない

 飛行機が出発する前に夕食を食べなければならないということで、あらかじめ予約してあった中華料理店へ入った。極々普通の中華料理店であるが、私達が座ったテーブルの隣には6人座っており、韓国語を話している。

 便意を催し、トイレに行くが、吐き気と便意は感じるものの、出るものが出ない。しばらく頑張ってみたが、出ないためテーブルへ戻った。

 メニューを見て、油の少なそうなタン麺のほか野菜炒めを注文した。凄いボリュームの料理が出てくるのだが、食欲が全く無く醤油を落としながら無理に押し込もうとしても、受け付けない。またも便意・吐き気を催し、トイレに行くが出るものが出ないため、返って気分は悪くなるばかりである。エアルミス氏が非常に心配している。「恐らく、旅の疲れから来ているだけだから大丈夫」と言った。持参してきたウィダーインゼリーでさえも受け付けない。仕方なくペットシュガーを舐めながらインスリンを注射した。しかしながら、無意識のうちに体がストレスを感じているのか昼食以来何も食べていないにもかかわらず、血糖は200近くあった。

 ますます、気分が悪くなる中、空港に着き、エアルミス氏と別れた。

 航空券の発券カウンターでは、気分が悪く、トイレに頻繁に行くことになることが予想されることを説明し、通路側の席を希望した。とにかく体を休めようとサッサと出国手続きを済ませ搭乗ゲートに向かう。空いているシートを見つけ腰掛けて目をつぶり30分ほど経つと大分気分が良くなってきた。最後の買い物と思い、免税店の物色に出かけた。

エチオピアを後に

 予想できたこととはいえ、やはり飛行機は時間通りには飛ばなかった。手持ち無沙汰に待っていると、ラリベラからアジスアベバに向かう途中に一緒になった青年海外協力隊の2人に会った。私はバンコクでJALに乗り換えて帰国するため、トランジットでバンコクで降りるのだが、この2人はこのフライトの最終到着地である香港を経由して帰国するとのことであった。我々3人の日本人の他にアジア人は、韓国人の年齢40〜50歳代と思しき8人のおじさん達の集団だけであった。私の片言の韓国語で話したところでは、このおじさん達、現代建設の人たちで仕事でアジスアベバに2週間滞在していたとのこと。女が一人、アフリカを旅しているということで、とても珍しがっていた。世代のせいもあるのか、「冬ソナ」に関してはほとんど話が通じないものの、「シュリ」「JSA」「ブラザーフッド」「シルミド」といった軍隊関係の映画については、話が通じた。

 なぜ私が韓国語を話せるのかと訊かれ、光州(韓国南西部の都市)に友達が数人いることを話したところ、「全羅道(光州市がある日本で言えば県)は良くない。やはり、慶尚道が良い。全羅道の人間と付き合うのは辞めて、慶尚道(日本でもお馴染みの釜山や慶州があり、歴代大統領も金大中氏を除けば慶尚道出身者で占められていた)の人間と友達になれ」とのこと。韓国を旅行した時も感じたのだが、韓国では今でも地縁というものが非常に根強く残っているものだと改めて感じさせられた。因みに、行きにバンコクで会った韓国人大学生たちも大邱の大学で、やはり慶尚道である。初めて韓国を旅行した時、往復の飛行機の中やソウルでも、話す人はなぜか皆全羅道の人ばかりだったことを考えると、とても不思議な気がする。

バンコクでのトランジット

 約4時間遅れでバンコクに到着し、2人の協力隊員と韓国人のおじさん達に別れを告げた。あらかじめ、エージェントから提案されたトランジットプランとして、ホテルで休憩することになっていたため、入国審査へ並び、入国しようとしたところ、係官から「トランジットはあちらへ」と言われてしまった。バンコクの現地旅行社に空港の公衆電話から電話をするのだが、どうも要領を得ない。このまま、空港で過ごしてしまっても良いかとも思ったのだが、1万2千円もあらかじめ料金を払ってしまっており、翌日からの仕事のことを考えても、ほんの数時間でもゆっくり休んだ方が良いと思い、再度、入国審査の列に並んだ。係官に「出国すると空港税が500バーツ(約2000円)かかっても良いのか?」と訊かれ、承知している旨を言い、やっと入国できた。

 バンコクの現地旅行社のガイドに空港の公衆電話から連絡をとり、迎えに来てもらいやっとホテルに着いた。フロントにモーニングコールいや目覚ましコールを頼み、4時間後に迎えにくるということで、ガイドと別れた。

 本来10時間バンコクで滞在する予定だったのが、結局、ホテルで過ごしたのは3時間ほどになってしまった。約4日ぶりにシャワーを浴び、ベッドに横になり、2時間ほど睡眠をとった。

 体調不良が無ければ、現地の安くて美味しいタイ料理を食べに行ったのだが、休息を優先した。

 夜10時20分バンコク発の飛行機は、幸運にも空いており、真ん中の4人掛けシートに横になって寝て帰ってきた。到着直前、軽食としてサンドイッチが配られたのだが、3〜4口しか食べられなかったため、血糖値が189もあったがノボラピッド300を4単位だけ注射した。

 成田に着き検疫所の黄色い質問表(途上国からの到着便からの降機客が入国審査を受ける前に配られる)過去2週間以内の滞在国を記入し、下痢・嘔吐の欄にチェックした。検疫所の係官に渡すと、現在の状況と具体的な下痢の内容を訊かれ、「食欲は回復していないものの、現在は症状そのものは治まっており、下痢といっても、いわゆるユル便系で、水様便で脱水症状の気配はない」と説明したところ、コレラの欄にチェックされ、「2週間以内に症状が悪化したら必ず検疫所に届け出るよう・・・」という用紙を手渡された。

 朝6時半、空港から実家近くに向かうバスに乗った。路線バスだというのに乗客は私一人だけであった。今回の旅は、本当に貸切状態の乗り物に縁があるものだと思った。実家に着き、インスタントうどん「どん兵衛」を食べた。その後、嘔吐も下痢も完全に治まり、「どん兵衛」一人前を十分平らげられるほど食欲は回復していた。

最後に

 観光地としては、日本人には馴染みのあまりないエチオピアであるが、教会に上がる時は靴を脱ぐ点(一般庶民は裸足で土間に上がる状態、都市部で靴をはいている人は靴のまま室内に入る)、御辞儀する点など日本人が親しみを持てる要素が沢山あることを発見できた。治安も良く、人々の道徳意識は高く、歴史的な遺産の宝庫でもある。人類最古と言われるルーシーの化石から始まり、シバの女王、世界最古といわれるキリスト教会があり、ラリベラを始め原始キリスト教に関する史跡が数多くあり、珈琲の原産地であり、今に歴史を感じさせる伝統的ライフスタイルが生きている国エチオピア。世界史の教科書ではあまり取り上げられていない国であるが、世界史にとって非常に重要な役割を果たしてきている。

 経済的には貧しく、旅行中に不便を感じることも少なくなかったが、特に歴史が好きな人には絶対にお奨めの国の一つである。

 今回の旅については、情報が少ない中、青年海外協力隊OBでありバングラデシュを旅行したときに大変に世話になった友人N氏の隊員仲間である協力隊OB会の会長を務めるガーナ滞在経験者のT氏を始め両国滞在経験者達に大変有意義な生の情報をもらい、旅行会社F社のO女史には大変世話になった。

 そして仕事とは言え、非常にサービス精神旺盛なヤレド氏、エアルミス氏、アウク氏、忙しい中、時間を作ってくれたビーチャム先生、秘書のアウク氏、アマレ先生、アーメッド先生、そして、彼らを紹介してくれたロン・ラーブ氏などなど数え上げたらきりが無いほど沢山の人たちの協力のお陰で、無事に終えることができた。

 この場を借りて皆さんにお礼を述べたい。

 いつもながら、心配をかけている家族、主治医の先生・薬剤師さんたち、そして夏休みを取らせてくれた職場の人たちにも合わせて感謝したい。
©2004 森田繰織
©2003-2024 森田繰織 掲載記事・図表の無断転用を禁じます。