ガーナへの旅 5 [全文 / 後編]
2004年09月
ビーチャム先生の話目が覚めると既に夜の8時。食事にいかなければと思い、夜の街へ単身で出る勇気はなかったためホテルのレストランで食事をすべく血糖を測り、インスリンを打とうとしていたところ、電話が鳴った。出てみると、ビーチャム先生からであった。インスリンは打たず、急いでロビーへ降りるとビーチャム先生と秘書のクワコプメ氏がいた。
ビーチャム先生にガーナの糖尿病事情を色々と訊いた。ビーチャム先生の話では、ガーナ抱えている問題は大きく5つあり、第1に治療コスト、第2に最新の治療機器が手に入りにくく、第3に糖尿病に関するデーがそろっておらず、特に1型・2型についてそれぞれのデータがなく、第四に医療従事者・患者を含め国民に糖尿病に関する知識がなく、第5に足のケアの専門家が1人もいないことであるとのことである。
コストに関しては、アニマルインスリン1バイアルが9ドル、ヒューマリンが1バイアル15ドルから20ドル、注射器1本30セントで、このほか輸入関税も掛かるため、患者の負担はさらに大きく、公的な保険はマラリア・結核・エイズといった急性疾患・感染症には適応されるものの糖尿病を初めとする慢性疾患には適応されないとのことである。
1日1ドル以下で生活しなければならない絶対貧困者数が国民の8割を占めるとのことで、糖尿病治療費は大きな負担となることは間違えない。
糖尿病有病率は、2型で6.4%でIGTを含めると11%にもなり、先進国の数字と変わらない。診断漏れも多分にあると思われるのだが、ビーチャム先生の患者でインスリンを使用している人は非常に少なく、皆ペン型を使っているとのこと。私が使用している血糖測定器・デキスターZとノボペン300とランタスの注射器を見せたところ、同国では使用されてないとのこと。ノボペンの古い型の100とヒューマカートが主流らしいが、他の病院では価格の安いペン型ではないディスポ型を使用しているとのこと。患者数は、コルレブ病院で登録されているのは、4000〜5000人だが、ビーチャム先生は月曜から金曜の外来担当し、1日あたり40〜50人診察しており、1日当たり5〜6人新たに糖尿病と診断される患者が出るとのこと。多くの病院では、週一回しか糖尿病外来を設けておらず、1日平均で100人も診察しなければならないとのことである。
社会的な面で、糖尿病患者に対する差別や偏見はなく、学校での虐めもないとのことである。後で、患者との話の中でも述べるが、通院のための有給(病休扱い)休暇も取りやすいとのことである。
一時間ほど話をした後、翌々日にクワコプメ氏に会うことで、別れとなった。せめてもう1日〜2日長くいれば、家にも招待し家族を紹介できたとのにと、とても残念がられてしまった。
私は、あまり食欲をそそられるメニューはなかったものの、ホテルの外へ単身で出る勇気がなかったため、ホテルのレストランへ入った。欧米人用料理で、ボリュームが多そうだったため、軽食メニューはないかと尋ねたところ、ある、とのことで、野菜スープとベジタリアンバーガーを注文したはずだったが、出てきたのは野菜スープとエキストリームビーフハンバーガー(玉葱他野菜がなく牛挽肉だけで作られたと思われる特大ハンバーグが挟んである)が出てきた。出てくるまでに結構時間がかかり、夜も更けており、翌日も出発が早いため、注文しなおすこともなく、特大ハンバーグをそのまま食し、さっさと食事を済ませ、部屋に戻り、入浴を済ませ、床に着いた。
昼間、街を回ったときも、ホテル内にも全く虫がおらず、部屋も冷房がよく効いていたこともあり、気が緩んだのか蚊取り線香をつけることもなく虫除けを体に塗布することもなく寝入ってしまった。結局、ガーナ滞在中は、この後も蚊取り線香も虫除けも使用することなく、虫には一切刺されずに終わってしまい、必須であるはずのマラリア対策は肩透かしに終わってしまった。後で、青年海外協力隊員のガーナ滞在者のマラリア罹患率は100%超(1人の人が何回も罹るため、軽く100%を超えてしまうらしい)と聞き、本当に信じられない思いであった。
世界遺産 セントコースト、エルミナ城へ
翌朝、出発時間より2時間早く目覚しをかけ、身支度を整え、階下に下りていく。
何となく気になり、フロントの時計を見ると、思っていたよりも一時間も早かった。7時間しか時差がないと思い込んでいたのだが、8時間時差があった。朝食を採るには早すぎると思い、ホテルの門から街行く人を観察し始めた。道路の向こう側には、前日は皆がサッカーをしており広場だと思っていたところが、バス・乗り合いワゴン車タクシーで溢れている。どうやら、バスターミナルらしい。バスを乗り降りする人たちを相手に商売するもの売りも沢山いる。人々で非常に活気が溢れており、恐怖心は多少あったものの、今までアフリカの町で感じた雰囲気とは異なり、「いかにも」という目つきの悪い人も居なかったため、好奇心に負け、道を渡りバスターミナルへ行ってしまった。
道を渡るとき、信号が赤になってしまったのだが、人目で外国人とわかるためか、車のドライバーとトラックの荷台に何十人も乗っている乗客が渡れとジェスチャーを見せてくれた。月曜日の朝と言うことで、バスターミナルだけでなく、通りは通勤・通学の人たちが沢山歩いている。アフリカ人は姿勢が良いからできるとされているのだが、男女とも皆、荷物を頭上に乗せて歩いている。それも、頭に荷物を乗せ、背中に赤ん坊を背負い、両手に荷物を持って歩いている人もいる。私も真似してみるのだが上手くできない。
人間ウォッチングをしていて飽きることはなく、もっともっと観察したかったのだが、時間が迫ってきたため、朝食を食べにレストランへ入った。バイキング形式で、パン・コーンフレーク・スクランブルエッグ・ポーチドエッグ・オムレツ・ソーセージ・ベーコン・チーズ・果物・フルーツジュース類と良くある欧米風の食事である。
皿に色々と取っているときに「おはようございま〜す」という声が聞こえてきた。見ると日本人と思われる10人ぐらいの集団がいた。そのうちの1人に思わず「日本人ですか?」と効いてしまった。JICAの農村開発プロジェクトの専門家として派遣されるために2週間研修に来たとのことで、これから農村に向かうということであった。ガーナであった日本人は、この人たちだけであった。
朝食を終え、部屋でCNNニュースを見ながら時間を過ごし、約束の時間となったためロビーに行ったが、アウク氏の姿はなく時間を間違えたかと思ったが、10分遅れでやってきた。
ホテルを出発し、アクラの街の中心地へ向かうと、通勤渋滞が始まっており、歩道も人で溢れている。渋滞は、郊外まで長く続いており、ほとんどが郊外の村から通勤してくる人で満員の乗り合いワゴン車タクシーである。道路わきには所々バス乗り場・乗り合いタクシー乗り場があり、人々が長蛇の列を作っている。
郊外に出ると、緑が多くなり、茶色いシロアリの塔があちこちに見られる。シロアリの塔は、鶏の餌として重宝されるらしい。家々が集まる居住地・市場・学校が所々現れる。リベリア難民キャンプも通り過ぎた。道路は、舗装工事中のところが多く、雨季の雨でぬかっている。道路工事現場には、日本との共同プロジェクトと書かれ日の丸の描かれた看板が立てられている。途中凄い勢いで雨が降ってきたかと思うと、カラッと晴れ上がり太陽光がギラギラ差し込んでくる。
道行く車も殆どなくなり、スピードをドンドン出し始める。途中、森林・村・パイナップル畑やとうもろこし畑を見ながら、目的地であるセントコースト・エルミナへ向かっていく。アクラを出て、4時間ほど経ち、漁師町であるセントコーストの町に近づくと、子供達が道端で、両手に魚を掴みながら売っている。
英国統治時代からずっと首都であったセントコースト市に入ると、古い建物が立ち並び、植民地時代の英国風の街が残っている。通り脇には多くの露天・足踏みミシンを踏みながら服を作っている人、鋸・金鎚片手に作業をする人々で溢れ帰り、まさに人々の「暮らし」というものを感じることができ、とても人間として懐かしい匂いというか雰囲気を感じる。
セントコースと城に着き、まずは、場内の博物館見学から始める。博物館では、ガーナの歴史が説明されており、ヨーロッパ人がやってくる前から、交易が盛んに行われており、豊かな国であったことが説明されている。
ポルトガル人がやってきた時も、その豊かさから「ゴールドコースト」と呼ばれ、英国統治時代もゴールドコーストと呼ばれ続けることになる。やがて、奴隷制が始まることになるのだが、初期の奴隷は、ポルトガル人がガーナ周辺のプランテーション農園での労働力として使用した、いわゆる内部奴隷であった。やがて、アメリカ大陸・カリブ海諸国へ労働力として大量に運ばれることになるが、400年間にアメリカへ連れて行かれたアフリカ人は、正確な資料はないものの400万人から4000万人(それ以上とする説もある)に上ると言われてる。博物館内には、奴隷船の船倉が再現されおり、3ヶ月間船倉に鎖で繋がれ、横に寝かされたままにされ、トイレにも行けないため、その場で用を足す(むしろ、漏らすと言うべきか)しかなく、自分の物だけでなく上段・隣の人の物にも塗れながら、口を無理にこじ開けられ、食事を流し込まれていたという当に生き地獄状態であったと説明されていた。このような状況で、生きてアメリカ諸国へ着けるのは15人に1人しかいなかったらしい。
次のセクションでは、奴隷から解放された後もアメリカで苦労しながら成功した人たちジャズトランペット奏者ルイ・アームストロング、キング牧師、黒人初の大リーガージャッキーロビンソンやスティービーワンダーといった人たちが紹介されていた。アレックスへイリー原作の日本でも30年近く前に放映されたアメリカのテレビドラマ「ルーツ」も紹介されていた。
次のセクションでは、ガーナの最大部族であるアカン族の文化を紹介していた。中でも印象に残ったのは、生まれた曜日ごとに男児・女児それぞれつける名前が決まっているということである。因みに、コフィ・アナン国連事務総長のコフィは金曜日生まれの男の子につける名前で、クワメ・エンクルマ大統領のクワメは土曜日生まれの男の子につける名前ということで、名前で生まれた曜日が分るのは良いが同姓同名ばかりにならないのか心配でもある。後にエチオピアのガイドから聞くのだが、アナンとは、エチオピアのアムハラ語では、ミルクを意味するということで、コフィ・アナン事務総長の名前は、エチオピア人にとって「コーヒー牛乳」と聞こえるらしい。
続いて、フセイン氏のガイドで奴隷達が船を待つ間、閉じ込められていたと言う地下牢を見た。一緒に回った4人のアフリカ系のアメリカ人は、自分達のルーツを探りにアメリカから来たらしい。男性用地下牢・女性用地下牢と分かれており、力仕事の多い奴隷としては、男性の方が需要が多かったため、男性1000人程、女性500人程が船積みされるまでの3ヶ月間、地下牢に押し込められていたということである。男性用地下牢は、30畳ほどの広さで床は土で、逃亡防止のため、トイレはなく、地上から1メートルほどの壁に白線が引かれており、ここまで糞便が溜まったということである。窓は、地上から4メートルほどのところに3つほどあるだけで、海辺とは言え、熱帯の気候下で30畳ほどのところに1000人も押し込められていれば、その熱気とトイレも入浴設備もない状態で、臭気は想像を絶するものであったに違いない。奥地で、奴隷狩りに遭い捕らえられ、首かせ・鎖でつながれ何日も歩かされ、その過程で弱って死ぬ者も少なくなかったらしいが、極悪の衛生状態の中、牢の中で死亡するものも少なくなかったらしい。船積みされる前に身体検査が行われ、不適格とされた者は、殺されたらしい。
女性用地下牢は、床に石は引かれており、広さは20畳ほどで少々狭いが、男性よりも人数が半分である分、多少はマシだったのかもしれない。女性の場合、無理やり白人男性の相手をさせられことも多く、妊娠した場合、子供が生まれるまでは船積みは猶予されたらしいが、生まれた子供の色が白ければ白人と看做され父親の子と認められ、その母親として結婚したらしいが、子供の色が黒ければ奴隷としての運命を背負わされたということである。反乱を企てた者は、窓のない、鉄の扉の牢屋に入れられ、食事も与えられず、死ぬまで出られなかったらしい。
船積みされるときに通る門「ドアオブノーリターン(帰らざる者の扉)」を出ると、地元の漁民が船・網の手入れをしており、露天商が物を売っており、奴隷制時代を全く想像できない状態であった。
このほかには、対岸のオランダが統治していたエルミナ城を始め、様々な侵略から守る砦の役目も果たしていたため大砲が数多く設置されており、本国から来た総督・役人達の住まいとして使われた部屋、執務室などがあった。
この後、対岸のエルミナ城にも行くが、機能はセントコースト城とほぼ同じで、書くこともほぼ同じ内容となるので、省略する。
チョコレートの在庫はせいぜい10個?
ホテルに帰った後、ホテルの売店にガーナのメーカーのチョコレートがあったため、土産用に購入しようとしたのだが、全ての在庫を合わせても10個程度しかなかった。とりあえず、全て購入した。翌日、コルレブ病院から空港へ向かう途中でも、数件、露天をハシゴし、40個までは調達できたが職場全部に配るには足りない状態のままであった。
この後、空港で80個在庫があり、結局80個全ての在庫を買い取ってしまうことになる。職場を始め友人、家族、主治医の先生、薬剤師さんたちと配ることになるのだが、このガーナ産チョコ、頗る評判が良かった。私も味見をしたかったのだが、旅行中の低血糖には、経験上チョコレートは吸収が遅いため向かず、家で低血糖が起きるのを待っていたため、帰国後2週間以上かかってようやく実現した。皆が言うように、日本のチョコレートよりも甘味・脂分が少なく、サッパリしていて美味しかった。冷蔵庫も冷房設備もなく、野外の露天で売られているため、脂分が多いと、熱帯の気候下では融けてしまうのであろう。
いよいよ最終日、コルレブ病院へ
朝10時には空港へ行かなければならない状態の中、7時半にホテルを出発し、コルレブ病院へ行った。コルレブ病院はとても広く、運転手もアウク氏も迷っている。病院の人に確認してくると言って、たまたま車を止めた所へビーチャム先生の秘書クワコプメ氏が来た。目の前が糖尿病外来棟であった。待合室の写真を撮っていると、アウク氏が来て、野口英世博士の記念碑・銅像のある一角へ案内してくれた。記念碑には、日本語で野口博士の功績をたたえる内容が書かれており、「忍耐」と大きく彫られている。
記念碑のある一角から、研究室が保存されている棟へ案内された。今現在でも、研究室脇の部屋は実験室・教室として使われており、数人の学生と思しき人が熱心に勉強していた。日本の三洋電機製の保冷庫がJICAのプレートが張られて置かれており、今もなお、日本の協力が続いていることが伺える。
野口博士の研究室には、子供のころに読んだ伝記の本に出ていた博士の母親と妻の写真、博士の母親からの手紙、博士直筆のノートや使用した顕微鏡も保存されている。
糖尿病外来棟へ行ったものの、時間は30分しかない。外来の待合室には、診療時間開始30分前だというのに人で一杯である。人数はざっと40〜50人いる。とにかく写真を撮りまくったのだが、処置室・診察室の撮影は許されなかった。
処置室では、数人の患者が採血していた。採血を終え、診察を待っている患者さんチャールズさんと話すことができた。彼は、年齢38歳で、2型糖尿病で12年間インスリンを打ち続けているということである。年齢的に1型ではないのかと確かめてみたのだが、2型とのことである。職業は工場労働者で、その日は、有給(病気休暇)で来院したとのことである。
他にも待合室で5人の患者さんと話をすることができた。待合室の患者さんたちと話していると、皆、「次は私に話を聞いて欲しい」と次から次へと寄ってきたのだが、時間が30分しかなく、残念ながら他には話ができなかった。話をした患者さんの1人に私の名刺を渡すと、皆、芸能人のサインでももらうがごとく「私も欲しい」と次から次へと手を差し出され、少々セレブの気持ちを理解できたような気分になった。
後ろ髪引かれる思いで、空港へ向かい、発券手続きの列に並んだ。すると、アジア系の人たちの集団がおり、話しかけてこられた。聞くと、香港からカナダへ移住した人たちで、キリスト教団体のボランティアとして、ガーナの学校で読み書きを教えに来ていたとのこと。互いにガーナでの体験を話した。私が糖尿病持ちでインスリン注射が必要なこと、予防注射は黄熱病と破傷風しかしていないこと、マラリアについては
©2004 森田繰織