ガーナへの旅 4 [全文 / 前編]
2004年09月
ガーナというと日本人がまず思い浮かべるのは、チョコレートの原料であるカカオの生産地、そしてロッテの“ガーナ”チョコレートではないだろうか。カカオの絵が印刷された赤いパッケージは私が物心ついた30年以上前から殆ど変わっていないことから、ずうっと消費者に受け入れ続けられているのであろう。その他には、新1000円札にプリントされる野口英世博士の臨終の地、黒人初の大統領クワメ・エンクルマ大統領、国連の現事務総長コフィ・アナン氏といったところではないだろうか。
15年ほど前、国際ペンフレンドクラブに入会していたときにガーナ人のペンパルを紹介され、文通をした時期があり、ガーナへ来るように誘われていたのだが、黄熱病・コレラの予防注射は入国に際して必ず必要であったこと、西アフリカ=政情不安・マラリアその他感染症流行地、そして私が連続休暇を取得できる9日間で往復不可能な秘境との思い込んでいたため、断念した経緯がある。
今回、たまたま旅行会社の案内で、「ガーナ&エチオピア9日間」との案内を見つけ、早速予約を入れた。エチオピアについては、貧乏旅行者の必需ガイドブック「地球の歩き方」もあり、滞在経験のある友人の数人おり、皆、口をそろえて「エチオピアは絶対に良いところ」と言っているため、いつか行こうと情報も集めていたのだが、ガーナについては「地球の歩き方」以外にもガイドブックが見当たらず、バングラデシュ旅行時に大変世話になったN氏の友人で青年海外協力隊員として滞在経験のあるT氏しか知らない状態であった。
従って、情報収集はインターネットと旅行会社を通じての情報に頼るしかなく、N氏からT氏を紹介してもらいメールでやりとりをし、生の声として情報収集した。
ガーナもエチオピアも入国には査証(ビザ)が必要で、ガーナのビザを取得するためには黄熱病の予防注射が必要であった。今まで、アフリカ(南ア・ジンバブウェ・ケニア・タンザニア)南米を旅行する際、
黄熱病の他にも、破傷風(実は9年前に接種している)、コレラ(効果が殆どないと言われている)、肝炎(効果は低いと言われている)、狂犬病(動物に咬まれてからでも良い)、そしてマラリア予防薬(潜伏期間があり、その間に服用しても良い)服用と色々な疾病対策が必要と言われたが、私は、むしろ副作用を心配し、必要最低限の黄熱病だけに止めた。
もちろん、1型糖尿病持ちの私の場合、事前に主治医に相談し、「予防接種については特に問題ない」との回答であった。初めてのアフリカ旅行の際には「できるだけ多くの
ガーナでは、マラリア対策については必須、エチオピアではマラリアよりもダニ・蚤対策が必須とのことであり、蚊取り線香・虫除けスプレーを大量に買い込んだ。
IFLのロン・ラーブ氏にも連絡をとり、時間があれば観光の合間に糖尿病関係者・糖尿病医療施設へ行きたいと打診したところ、ガーナのビーチャム先生、エチオピアのアマレ先生を紹介され、メールでやりとりした。2人とも、「大歓迎」という内容の返事をくれた。
テロ対策で規制が厳しくなっていることから、事前に旅行会社を通じて、インスリン・注射器を持ち込まなければならないこと、機内食は糖尿病食を注文するということを連絡した。今までの経験から、糖尿病食なら血糖コントロールが上手くいく内容ではないのは承知しているのだが、もしインスリン・注射器類で何かあらぬ疑いをかけられたときに「糖尿病食も注文していますし・・・!」と対抗要件の一つとなるとの期待もある。
出発!
出発時、成田の旅行会社のカウンターでビザ取得のために預けていたパスポート、保険の証書、航空券を受け取り、JALの発券カウンターへ行き手続きをしようとしたが混雑していた。機械での発券を案内され、航空券を入れても「カウンターへ」と表示されてしまい、航空券が機械に入っていかない。横にいたJALの係官が、「森田様は事前に確認事項があるので、カウンターへ直接お願いします」と言った。カウンターの受付の係官が、インスリン持ち込み、機内食についての確認後、「何か介助は必要か?」「注射時に化粧室を利用するか?」と尋ねてきたため、それぞれ「いいえ」「場合によってです」と答えた。
出国手続きにゲートをくぐる時に手荷物検査があるが、写真フィルムをX線から守るフィルムプロテクターの中身を確認された以外、特に何も問題なく通過した。フィルムプロテクターで引っかかったのはこのときだけである。
アフリカへ行くにあたり長時間フライトは避けられない。そこで、エコノミー症候群対策が必要となるのだが運悪く成田・バンコク間で通路側の席が取れなかった。自衛策として、私の場合、機内では血糖値は上昇傾向にあるため、ドリンクサービスでは脱水作用のあるお茶や珈琲は避けミネラルウォーターかビタミン不足を補うためにトマトジュースを注文する。機内は非常に乾燥しているためミネラルウォーターを持ち込みマメに一口・二口喉を濡らし、マスクをして寝る。席に座ったままでも足をマメに動かすことにしている。
機内食は、あらかじめ頼んでおいた糖尿病食が配られた。目分量カロリー計算ではあるが、結構、カロリーは多く、また6時間半のフライト中2回出されるため、ある程度セーブしなければ、血糖は上昇してしまう。バンコク到着1時間程前にモナカアイスが配られたが、私には野菜(トマト・きゅうり)ロールパンサンドウィッチが配られた。
バンコク到着後、約6時間空港で時間を潰さなければならない。エチオピア航空を利用し、バンコクからエチオピアの首都アジスアベバでガーナの首都アクラへ行くコースである。
トランジットラウンジに向かい、エチオピア航空のカウンターを探すも、通常、発券手続きは2時間ぐらい前から始まるためか、まだ係官もいない。カウンター近くのシートは満員で座る場所がなかったため、空港の長い通路を歩きながら、開いているベンチを見つけ腰を下ろした。
数分後、誰かが私の肩をたたいた。すると、10代後半と思しき女性がビスケットを差し出して来た。特に睡眠薬強盗を警戒したわけではないのだが、英語で「糖尿病だから菓子は食べられない」と答えたところ、「ゴメンなさい」と言い、色々話しかけてきた。すると彼女の仲間達が集まってきた。訊くと、韓国の大邱(テグ)の大学のキリスト教ボランティアサークル仲間で、インドへ旅する途中だと言う。夏休み中、2週間ほど滞在し、布教活動の他、観光を楽しむ予定だと言う。日本に対する関心も深く、テレビ番組・映画・アイドル歌手の話で盛り上がり「ヨン様」とは何を意味するのかとも訊かれた。この後、布を丸めてビニール袋に入れた即席ボールを作り、空港の通路でサッカーを楽しんだ。別れ際に一掴みの飴を貰い、低血糖用として受け取ったのだが、この飴が後にエチオピアでとても重宝した。
エチオピア航空のカウンターで発券する際、タイ人と思われる係官が「糖尿病食を注文していますか?」と訊いてきたため、「注文している」と答えた。通路側の席を希望したところ、通路側の席が取れた。搭乗ゲートへ向かう途中の通路には、日本人どころか東アジア人の姿がない。イスラム圏の民族衣装を纏った人たちばかりだ。それでも、途中、日本食と中華料理の弁当屋がある。寿司・蕎麦・うどん・うな丼・親子丼の他、春巻き・チンジャオロースー・中華麺などもある。夕食をまだ食べておらず、お腹もすいてきていたが、機内食のことを考え、ここでは、味噌汁だけに留めた。
搭乗ゲートへ着くと、私のほかには白人が3〜4人いるだけで、もうアフリカ人ばかりで、異国へ来たという実感が湧き出してきた。揃いのバッグを持ち、首から同じ札をぶら下げている集団がいた。その中の数人と話し、バンコクで開かれていた世界エイズ会議に出席してエチオピアへ帰る途中とのことであった。
その中の1人、エルシド先生は、以前、エチオピアの地方都市ゴンダールで糖尿病外来を担当していたことがあるということで、非常に話が盛り上がった。2号前のIDFの機関誌にゴンダールの糖尿病事情が出ており、交通手段が徒歩かせいぜいロバの背にゆられて行くしかない彼らにとって、一番近くても30〜70km離れた医療機関へ行くのは大変な負担と書かれていたことを話したところ、エチオピアでは医師不足が深刻であることや糖尿病が増えているものの治療体制が追いつけない状況、エイズも非常に深刻で、糖尿病になかなか関心が向かないため、先進国からの援助を本当に必要としているということを話してくれた。エルシド先生は、今はエイズの専門医となったが、専門医となる前は、ゴンダールの病院に勤務しており、毎週金曜日に糖尿病外来を担当しており、1日100人もの患者を診察していたとのこと。それでも、患者が増え続けており、とても診療体制が追いついていけない状況だと言っていた。
エチオピアでは、医師養成機関が非常に少なく、いわゆる医学部志願者が年間1000人にも上るが、合格できるのは年間60人前後の非常に狭き門であるとも言っていた。
搭乗後、通路側に席が取れたと思っていたにも拘わらず、家族連れで席が離れてしまった人たち数人がフライトアテンダントに言って席を替えている。単身の私にも席を動いて欲しいとの要請が来たため、「糖尿病でエコノミー症候群予防のため、機内で運動が必要なため通路側の席なら動いても良い」と伝えたところ、別の通路側の席に移された。約2時間遅れてのアジスアベバへのフライトとなった。
食事時間となり、機内食が配られ始める。今までの経験では、糖尿病食に限らず、ベジタリアン食など特別食は、事前にフライトアテンダントが確認に着たり、シートにシールが張られたりして、先に配られるのだが、ここでは通常食が配られようとしたため、発券時に確認があったこともあって、糖尿病機内食を頼んであるとフライトアテンダントに言ったのだが、なかなか配られない。前食から長時間経過しており、そろそろインスリン注射の効力も切れ掛かっている時間であり、不安になってきたが、マジックでDiabetes(糖尿病)と書かれた機内食が配られた。通常食との違いは、肉の代わりに魚、ケーキの代わりに果物、というほかは、特にない。
アジスアベバへ到着したのは、次のアクラ行きの飛行機の出発時間を過ぎていた。事情を話し、混雑する人を掻き分けながら前に進む。アフリカ人は体格の良い人たちが多く、日本人としても小柄な私がその人たちを掻き分けて進むのは容易ではない。航空券を見せながら空港の係官に尋ねながら、何とかトランジットゲートへ向かう。アジスアベバの空港は、建物は新しいのだが、表示・アナウンスもなく、慣れないものにとっては非常に不便である。何とか搭乗ゲートに着くと、人が大勢待っており、離陸時間を約2時間も過ぎているのに、まだ離陸どころか搭乗も始まっていない(最も離陸されていては困るのだが)。
発券はバンコクで済ませており、そのまま搭乗するものと思いきや、搭乗を待っていた中国人男性が中国語で、「チケットとパスポートを登場ゲートで見せ、手続きしろ」と言ってきたため、指示に従い手続きしたところ、バンコクの発券時とは異なる座席番号を手書きで書かれた。搭乗まで、この後4時間も待たなければならず、先程の中国人男性と話し始めた。私の中国語のレベルでは、長い話は続かず、この中国人男性の仲間の英語の話せる別の中国人男性を交えて話ながら時間を過ごした。この中国人の集団は、新たなビジネスチャンスを求めて、カメルーンの首都ドゥアラへ視察に行くと言っていた。ここでの機内食は、糖尿病食はなかった。この飛行機がカメルーンのドゥアラを経由することは、事前の旅行会社の説明にも、渡されたスケジュール表にも書かれていなかったので、少々戸惑った。
目的地であるアクラに着いたのは、6時間も遅れて、午前11時だった。あまりに遅れたため、送迎者が空港にいるか心配であったが、ドゥアラで中国人の集団が降りた後、たった1人のアフリカ人以外の人間だったため、すぐに分ったらしく、アクラの旅行会社の運転手が直ぐに見つけてくれた。
仰天! ビーチャム先生が空港に!
空港の入り口を出ると「サリー!」と呼ぶ声がした。振り向くと「アイム ドクタービーチャム」と言う。事前にメールに私の写真を貼り付けて送ってはいたのだが、珍しい東アジア人ということで直ぐに分ったのだろう。
事前にメールで、アクラに着いたら連絡するとは伝えていたため、まさか、空港にビーチャム先生が迎えに来てくれているとは思わなかった。旅行会社の運転手が怪訝そうにビーチャム先生を振り払うように車へと向かう。私もビーチャム先生からのプリントアウトしたメールを見せ、運転手に説明するも、とにかくホテルまでは第三者の仲介は認められないということになり、ホテルまで行き、そこで話すこととなった。
ホテルへ到着し、現地の旅行会社のガイド、アウク氏と会い、チェックインする。チェックイン手続き後、時間にして2日近く入浴していないため、軽くシャワーを浴びさせてもらうことにし部屋へ行った。階上に行くためのエレベーターは、部屋のカード式キーを通さなければ動かないしくみになっている。その間、アウク氏とビーチャム先生が話をし、病院を訪れる日程について話合ってもらった。
その日の午後は、市内観光のみで、時間的な余裕があったのだが、日曜日で病院が休みとのことで、偶然にも、ビーチャム先生はコルレブ病院勤務であり、翌々日の観光コースに入っているコルレブ病院での野口英世記念碑訪問時に病院見学をすることになった。翌々日、ビーチャム先生は都合がつかないということで、その日の夜、ホテルのロビーで話をすることになり、翌々日案内をしてくれる秘書のクワコプメ氏を紹介するということで、一旦別れた。
アクラ市内観光
ガーナの首都であるアクラ市は、海辺の街で、大西洋に面している。英国統治時代に造られたという古い灯台や建物、市場、高級住宅街を車で通り過ぎる。高層ビルはないものの、中心部のいわゆるオフィス街には近代的な建物は立ち並んでいる。広場があれば、どこでも皆サッカーをしている。ガーナで一番人気があるのは、サッカーでプロとして欧州のチームで活躍している人も少なくないらしい。途中、独立記念門を挟んで独立記念広場とサッカー場がある。サッカー場には、試合が始まる数時間前というのに多くの人が炎天下で既に席に座って待っている。
雨季ということで、雲が時折出てきては、雨が降り、その後カラッと晴れる状態が繰り返される。熱帯雨林気候ということで、日中40度を超える暑さと聞いていたが、日本の夏の方がず〜っと暑く感じる。Tシャツの上にいつも防犯を兼ねて一枚デニム地のブラウスを一枚羽織るのだが、脱ぐ必要を感じないのである。
エンクルマ大統領廟に着き、既に支払い済みの入場料の他に、カメラ持ち込み料3万セディ(約500円)を払う。中国との友好30周年なる大きな横断幕が掲げられている。日本では、報道されていないことであるが、実は、中国はアメリカ以上に世界中、とくにアフリカ諸国に数多くの軍隊を送り込んでいる。友好と言う名の下の影響下に納めようとしている意図が見えてくる。
エンクルマ大統領廟横に大統領に関する遺物が納められた博物館があり、ガイドの説明を聞く。革命や独立時のリーダーにはつき物であるが、投獄されたり、紆余曲折を経てガーナの初代大統領、いや黒人初の共和国の大統領となったにもかかわらず、後にクーデターで国を追われ、リベリアで最後を迎えたということ。その後、遺体がこの廟に移されたということである。
アクラ市内を車で走っていると、アウク氏が棺桶屋に連れていってくれるとのこと。観光に来て棺桶屋とはまた何とも不思議な思いであったが、ガーナでは、日本よりも死というものが身近なのかもしれない。棺桶といっても、とてもカラフルで、鶏の形、コカコーラの缶の形、ロケットの形など様々で、綺麗に彩色されており、遊園地の乗り物を思い起こさせる。製作過程を見せたかったらしいが、生憎、日曜日で工房が休みであった。通り沿いには、結構、棺桶屋さんが並んでいる。
アクラ市内には、軍の関連施設が多くある。商業施設関連では、マクドナルド、ケンタッキーといったアメリカ系のファーストフード屋はないが、コカコーラ、ペプシコーラはある。菓子類は、地元ガーナの「ゴールデン・トゥリー」チョコレートの他、リグレーのチューインガムがある。コンビニやスーパーもなく、日本料理屋もないが中華料理店や中国人経営のカジノなど娯楽施設は数件ある。
ソニー・
午後2時ごろ、昼食を食べることになった。都内のガーナ料理店で以前食べた、トマトスープを食べてみたいと言ったが、入ったレストランになかったため、別のガーナ料理に挑戦した。プランティーンと呼ばれるバナナに良く似た果物を焼いた物にひよこマメに煮た豆と野菜(玉葱・キャベツ・ピーマン)をカレー粉で和えて炒めたもの、ローストチキンを食べた。想像していた以上に美味しく、食が進んでしまった。プランティーンはたんぱく質を中心に栄養が豊富とのことであった。抗生物質入りの飼料に汚染され、変な臭いのする日本を始め先進国の鶏肉と比べ、アフリカの鶏は、本物の新鮮な地鶏なため本当に美味しい。卵も然りである。
昼食後、食べ過ぎた分を取り戻す意味もあり、アウク氏と共にレストラン周辺の住宅地を散歩した。夜間営業の食べ物を売る屋台や菓子・果物・野菜といった食料雑貨を売る人々が木陰のあるところで、商品を並べて売っている。
鶏が庭先、時には道まで出てきて、チョコチョコと歩いている。
平和維持のために必要な軍事力
歩きながらアウク氏とエンクルマ廟でガイドさんから聞いたことを中心にガーナの歴史や社会について話をした。ガーナは、軍備を非常に重視しており、特にナイジェリアとの軍事協定は非常に重要で、国連や欧州から要請を受け、海外に派兵することもしばしばで、リベリア・コートディボアール・シエラレネといった近隣諸国の内戦終結・治安回復にも重要な役割を果たしており、イラクへ派兵された人たちも大変な名誉で、一族の誇りとなるそうである。徴兵はないものの、住居と自動車が支給されることもあり、軍人になることは人々の憧れで、警察官とサッカー選手と並ぶ人気のある職業で、近年、女性の志願者が増えているとのことである。
日本の憲法は軍備を持つことを禁止していること、イラク派兵について日本では賛否両論があること、唯一被爆国として、また最後の被爆国となるべく世界に向けて平和のメッセージを送らなければならない立場にある点などを話した。
アウク氏は、ガーナ人は皆平和を愛するから、平和を守るために誇りを持って軍人として戦うと言った。戦争抑止力としての軍備や自衛のための軍備については、卵が先か鶏が先か理論で、議論の尽きないところであるが、政情不安な国が多いアフリカにおいては、丸腰では生き延びることができない事実がある以上、武力の完全放棄という日本的な平和主義思想は通用しないのであろう。
街のあちこちに警官が立っていることもあってか、想像していた以上に治安は良い。以前、旅した南ア・ジンバブウェ・ケニア・タンザニアがとても治安が悪かったため、アフリカ=治安が悪いとイメージがあったのだが、街の雰囲気からして緊張感が全然違う。
この後、土産物屋が立ち並ぶ市場に連れていかれ、土産を買った。売られている物は、人や動物のアフリカンスタイルの木彫りの彫刻、民族楽器、民族衣装、Tシャツ、サンダル、バッグといったところで、いわゆる日本人向けバラマキ用土産はない。勤め先の皆には、最悪、帰りに寄るバンコクの空港で買えばいいやと思いながら、いつも心配かけている家族と主治医の先生への土産を購入した。
ホテルに戻り、翌日の出発時間を確認し、アウク氏と別れる。ホテル内を見回った後、部屋に戻り、夕食時間まで間があったので、部屋のテレビでディスカバリーチャンネルを見ていたのだがいつの間にか寝入っていた。
©2004 森田繰織