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第18回 IDF(国際糖尿病連合)世界会議に参加 5

2003年08月
世界遺産モン・サン・ミッシェル ― 江ノ島?




























 パリからは、少々離れるが、日帰りできる範囲にあるモン・サン・ミッシェル。世界遺産にも登録され、フランスを代表する観光地としてガイドブックにも結構紹介されている。

 8世紀の初頭、大司教オペールのもとに大天使ミカエルが現れて、聖堂を建てるようにお告げを授け、こうして島の山頂に小さな聖堂が建てられたと言い伝えられている。さらに10世紀には修道院が建てられ、その後約500年の歳月を経て山頂から下へと増改築を繰り返した。14世紀の100年戦争時には要塞、フランス革命時には牢獄として使用されるなど、歴史に翻弄されたという一面もある。

 パリに着いた初日、旅行会社に相談したところ、日本人用1日バスツアーを紹介されたため、それに参加した。朝7時15分出発で、集合時間に集合場所にいなければ、出発してしまうということで、遅刻厳禁と釘を刺された。そのため、料金は前払いで、クレジットカードの番号を伝え、電話での予約となった。

 当日、朝、5時45分に起床し、身支度を整え、ホテルを出発し、まだ夜が明けぬ暗い中地下鉄シャルルドゴール駅まで歩き、5駅先のチュイルリー駅へ。朝食は、バスツアーの中にサービスとして、おにぎり2個付きということであったため、取らずに出かけた。駅に着き、右手にチュイルリー公園を見ながら、目印といわれたジャンヌダルクの像のある角を曲がり、集合場所の旅行会社のオフィス前へ到着。既に参加者と思しき日本人が何人か待っていた。オフィスが開き、トイレに行き、説明を受ける。ここでも、見覚えのある入館証を首から提げているお方がおり、尋ねたところ、内科医院を開業しているという方が静岡県からご夫婦で参加されていた。

 バス2台に分乗することになり、おにぎり2個と水が配られる。バスに乗り込み、発車する前にさっさとインスリンを注射し、おにぎり2個を平らげた。おにぎり2個だけでは、吸収が早く低血糖が心配だったため、インスリンはいつもより2単位少なめにノボラピッド300を4単位注射した。

 バスの中から聞こえてきた会話から推測して、もう2人ほど、今回の IDF 会議に参加していると思しき人々がいた。

 50歳前後と思しき、品のある紳士の日本人ガイドにより、説明が始まる。

 ダイアナ元皇太子妃の臨終の地となった、パリの町外れの事故現場となったトンネルを抜け、伝統的な市場を通り過ぎながら、どんどん緑が多くなっていく。反対車線は、パリ市内に向かう通勤の車で混雑している。パリ市民が週末散策すると言う森があり、少し前までは、狩猟も認められていたそうだが、近年、狩猟は禁止され、鹿などの動物も頻繁にみられるそうである。

 パリ郊外の住宅地を過ぎると、畑が延々と広がっている。さすが農業国のフランス。大都市パリから1時間も経たない距離にこんなにも広大な畑が広がっているとは。

 途中、街を抜ける際、警察にバスを止められ、警官が中に入ってくる。警官が入ってくる前にガイドさんが日本語で、シートベルトを締めてくださいと言った。1週間ほど前、その場所でシートベルトをしていなかったために死亡事故が起きたため、シートベルト着用を徹底しているのだそうだ。

 ドライブインでトイレ休憩があり、売店でサンドイッチ、サラダ、ハム、チーズなどが売られていたため、朝食のバランス不足を補うため、購入しようかとも思ったのだが、食欲が無かったため、ここでは何も買わなかった。

 さらに田園地帯を走ること約3時間、遠方の霞の中に荘厳なモン・サン・ミッシェルの建物が見えてきた。あたりには、農家兼民宿が立ち並び、モン・サン・ミッシェルへ向かう車で渋滞し始めている。特産のワインやジャムなど地元の農家で生産された土産品を売る店が立ち並んでいる。商魂逞しいツアーなら、ここらで停車し、土産物を買わせるのだろうが、渋滞の中ノロノロ運転しながら、ひたすら目的地に進んでいる。

 陸地からモン・サン・ミッシェルに向かう狭い道。昔は、この道も潮が満ちてくると水没してしまい、渡っている最中に潮が満ちてきて、潮に呑まれて命を落とした巡礼者も少なくなかったらしい。現在は、完全に埋め立てられ、道となっており、自動車も2車線で走っている。

 ここまで来ると、さらに渋滞が激しくバスもなかなか前に進まない。道の両側は駐車場になっており、車がビッシりと停まっている。その外側は、丁度引潮の時間のため、まるで泥沼のような遠浅の海が広がっている。職場の人に、モン・サン・ミッシェルに行くという話をした時、「ああ、あの江ノ島と同じところね」という反応が返ってきたのだが、この狭い道を通っていると、世界遺産というより、やはり、あの混雑した夏の江ノ島を思い起こさせる。

 午後1時半。やっとのことで、目的地に着いた。血糖が下がってきているのが何となく分る。恐らく昼食は、タップリとしたボリュームとデザートのケーキが出てくることが予測されたため、捕食をせず、何とか持ちこたえるようにした。

 それにしても、とにかく人が多い。都内の朝の通勤電車以上の混みようで、文字通り、人を押しのけ掻き分けていかないと前に進めない。ガイドさんを見失わないようについてゆくので精一杯である。急な階段を上り、人を掻き分け、何とかレストランに到着。着席し、早く食事が出てこないかとイライラしながら、血糖を測ると70であった。インスリン注射するには、低すぎる血糖のため、食事の様子を見ながら途中または食後に打つべく、打つのを忘れるのを避けるため、注射器をテーブルの上に置き、まるでお預け中の犬のようにイライラそわそわしているうちに、最初の一品目のシーフードパイが出てきた。サラダ、焼いた平目、ビーフステーキと月並みのコース料理が出された。

 食事が終わり、いざモン・サン・ミッシェルのたてもの内へと思っても、急な坂道を登っていく途中、何件も一般の民家が立ち並び、やはり人を掻き分けてゆく。ようやく入り口に辿り着くも切符売り場前は、ものすごい人ごみである。

 ツアーに入場券も含まれている我々は、人ごみを掻き分け中へ入っていった。階段を上りに上り、テラスへ到着。見渡す限り、あの泥沼のような海が広がっている。ガイドさんが「あちらがノルマンディーで、あちらがブリテン島で・・・」と説明をしている。要塞として使われていた時期もあるということで、英国軍が攻めてきた状況を想像しながら、やっと建物の中に入ることになる。

 建物の天井は、石では建物の重みを基礎が支えられなくなってしまうということで、木製であった。修道士たちが過ごした部屋、厨房、倉庫、牢屋として使われていたという部屋、様々な彫像あり、昼間でも薄暗く、ひんやりとする石造りの壁に囲まれた部屋・通路とヨーロッパの史跡の定番である。

 最上階はパティオになっており、中庭では食料となる作物を栽培していたそうだが、とてもそれだけでは不十分で、領民たちに寄進をさせていたそうで、その寄進物を高さにして5階建てぐらいの高さの建物内に引き入れるための大きな滑車があった。滑車の中に人が入り、竜骨車のような要領で回したらしい。

 修道士と言えどもかなり俗に塗れた生臭坊主的な生活をしていたような印象を受けた。もちろん、心から神を信じ、真面目に信仰に生きた修道士たちもいたに違いないと信じたいが。

 建物内を一周し、40分後にバスに戻って下さいと言われ、他に一人参加していた即席仲間二人とお土産屋に走った。人を掻き分けながらのためなかなか前に進めない。モン・サン・ミッシェルのある島が一つの市になっていて、そこの市長がサブレ、リキュール酒を特産品として製造販売している。

 店頭で試食をしてバターたっぷりのサクサクとした歯ざわりのサブレの美味しさに惹かれ、嵩張るのであまり、沢山は買えなかったものの、家族と主治医の先生へのお土産として購入した。下戸の私は、リキュール酒は購入しなかった。

 集合時間まで残り30分しかなかったが、名物のオムレツを食べていこうという話になり、昼食時に一緒になった一人参加の女性2人と一緒にオムレツを食べた。時間に追われ掻っ込み状態だったこともあってか特段美味しいと感じることはなかった。

 急いでバスに戻り、途中、建物をバックに写真を撮ろうとするが、あまりに大きく、カメラに収まらない。

 山と同じで、近くから見るよりも遠くから見る方が、立派で美しい。
ノートルダム大聖堂 ― パリの発祥の地


 シテ島といえば、セーヌ川の中州で、紀元前3世紀ごろパリシー人と呼ばれる人々が住み着き、パリ発祥の地と言われている。ノートルダム大聖堂、サントシャペル教会、コンシェルジェリーといった観光名所があり、警視庁や最高裁判所など重要な機関が集中している。ノートルダム寺院の前には、パリのゼロ地点を示す星型の印があり、まさにパリのど真ん中なのである。

 セーヌ川を眺めながら、シテ島内を歩き回る。IDF バッグを背負っている、同じ穴の狢も結構見かける。

 パリの街は、とにかくトイレに苦労する。地下鉄駅にはトイレはない。カタコンブにもトイレが無く結局そのときから約2時間ず〜っと我慢をしている状態である。通りの歩道に有料の公衆トイレがあるのだが使用している人を見かけず、書かれた料金を入れてみても返却口に戻ってきてしまい、ドアが開く様子もない。いよいよもって、カフェにでも入ってトイレ代として、紅茶の一杯でも飲もうかと諦めかけていたところにトイレと書かれた矢印の標識が目に入った。矢印に従って進むもそれらしきものが見つからずうろうろする。誰かに尋ねようにも皆観光客風の人ばかりで、尋ねるのも気が引けた。

 ノートルダム大聖堂に向かって右手手前に、やっとトイレの入り口らしきものを見つけ、地下へと階段をくだり、地下道のような長い通路を進んでいくと遊園地の入り口によくあるような、三つ又の金属のゲートがある。一応、ゲートの前に窓口があり、人もいる。ゲートをくぐるための小銭の無い人は、この窓口で両替してもらえる。ヨーロッパの国々やトルコ、エジプトといった中東の国々の公衆トイレは、有料であることが普通である。治安や衛生面を考えれば、有料で窓口に人がいる方が良いのかもしれないが、貧乏人は排泄もできないのかとも考えてしまった。何とか無事に終え、すっきりした気分で再びシテ島観光へ!

 9年前にノートルダム大聖堂を訪れた時は、中には入れたものの外壁の工事中で、建物の外側には幕が張られ工事用の足場が組まれている状態であった。

 とにかく人が多く、大聖堂の中に入るにも並ばなければならない状態で、中も混雑している。大聖堂内には、多くの絵画や像があるのだが、前回来たときに既に見ていることもあり、あの大きなバラ窓を再度拝んで帰ることとした。

 バラ窓、とにかく大きなステンドグラスである。人々の信仰がこの素晴らしい芸術を生んだのかと思うと、信仰というものが人間に与える影響と言うのは、すごいものだと改めて思わざるを得ない。それが間違った方向に行くと魔女裁判や異教徒迫害、果ては自爆テロまで引き起こしてしまうのだから恐ろしい。

 大聖堂の外は、大聖堂の塔に登る順番を待つ人が長蛇の列をなしている。教会の塔に登ってみたいという思いもあったのだが、サントシャペル教会のあの美しいステンドグラスを再度拝みたいと思い、サントシャペル教会へ向かった。
サントシャペル教会とコンシェルジェリー ― いまだ現役裁判所内


 サントシャペル教会は、最高裁判所の建物内にある。サントシャペル教会へ行くためには、最高裁判所の敷地内に入らなければならない。人間の記憶とは、曖昧なもので前回来たときに何処からどのように入ったのか全然記憶がない。

 裁判所の建物に沿って通りを歩いていると観光客風の人々が並んでいる列があり、列の先頭の入り口にいる係官の人に尋ねたところ、ここで並ぶようにいわれ、列の最後尾へ並ぶ。並んではいるものの進みは早く、あっという間に入り口に到達した。

 敷地内に入るためには、荷物を飛行機に乗る時のようなX線検知器に通し、金属探知機によるボディチェックも行われる。裁判所・法務省に用事がある人は左へ進み、サントシャペル教会・コンシェルジェリーに行く人、つまり観光客は右に進む。前回来たときは、ここまで警戒は厳しくなかった。やはり、昨今の国際情勢を反映して、テロ対策ということなのだろう。

 矢印に従い、サントシャペル教会へ向かい、入り口でコンシェルジェリーの入場券とセットになった入場券を購入した。前回、来たとき入場料を払った記憶が無いのだが、記憶違いなのか、それとも有料化されたのかは不明である。

 西日が当たり、2階のステンドグラスが一段と美しく、神々しく輝いている。教会の建物そのもの、ステンドグラスもノートルダム大聖堂と比べると非常に小さなものであるが、そのぶんステンドグラスが間近にあり、光を直接浴びることができるため、ノートルダムのものより、美しく感じられる。

 ステンドグラスは、キリストの生誕から受難まで物語となっている。前回来たときよりも、聖書を読み込んだ分、ステンドグラスに表現されているシーンが理解できるようになっていた。しばらく、西日を通して美しく輝くステンドグラスに見とれていた。
マリーアントワネットも幽閉されていたコンシェルジェリー ― 地獄の沙汰も金次第?
 神々しく美しいステンドグラスを後にし、矢印に従ってコンシェルジェリーに向かうもなかなか辿り着けない。出口のゲートのところにいる、警備の警官に尋ねたところゲートを出て左手と言われそれに従って、左方向に歩いていったのだが、裁判所の建物を通り越し、警察庁の建物の方まで行ってしまった。途中、警察庁の建物の中から出てきた人に尋ねると、もっとゲートよりだからそこまで戻るよう言われた。結局、出口のゲートまで戻り、再度、来た道を行くと、ゲートを出て直ぐ左手に本当に目立たない小さな表示を発見した。前回来たときの記憶がここでも全く無い。

 中に入り、だだっ広い牢獄があることは、ハッキリと覚えており、そのとき一緒に旅した職場の後輩と「マリーアントワネットともなるとこんなに広い牢屋に入れてもらえたんだね」などと話したことを思い出した。

 さらに奥へ行くとマリーアントワネットが幽閉されていた独房があり、様子を再現する人形が置かれている。ナポレオンが被っているような帽子をかぶった看守の人形が3体あり、トランプをして遊んでいる。マリーアントワネットの人形は、机に向かっている。独房内にはベッドも置かれている。華やかな宮廷での生活と比べれば、家族と引き離され、まさに一人ぼっちで独房に入れられていた時期は本当に辛いものだったであろう。

 2回へ上がると、ランクごとに牢屋再現され、それぞれ人形が置かれている。ランクといっても罪の重さではなく、お金の有無である。お金がない罪人は、狭い牢屋内に藁の上で寝なければならず、少々お金のある罪人は少々広めの牢屋に寝返りを打つのは難しそうな狭いベッドがあり、お金のある罪人は普通のサイズのベッドと毛布、机もある。結構、著名な芸術家や作家、貴族階級の人々もここで裁かれ、処刑された歴史があると解説に書かれていた。

 この最高裁判所の建物、中世のころから現在もなお使われている。裁判官も黒い角帽とマント姿で、伝統的な井出達である。日本で風に言えば、それこそ「大岡越前」や「遠山の金さん」が裃姿で、お白砂で裁きを下している感覚なのだろう。フランスという国の歴史を感じさせる。日本も歴史のある国ではあるが、さすがに現在の裁判官が丁髷に裃姿で、被告人に向かって「面をあげぇ〜」などということはありえないことであろう。
地下墓地カタコンブ ― 人骨まで“建材”として芸術作品にしてしまうフランス人




 パリといえば、絵画や彫像といった芸術、ワインやフランス料理に代表される食文化、ファッション、エッフェル塔や凱旋門などの建築物といったお洒落なイメージがあるが、カタコンブ(地下墓地)も結構有名な観光スポットである。

 もともと採石場であった後地にパリ市内にあった共同墓地の無縁仏の骸骨600万体が、100年ががりで運びこまれたという地下墓地である。戦時中には、レジスタンスの会合場にもなったということである。

 入り口で入場券を買い、地下へと階段を下りていく。2〜4人ほどの観光客のグループが次々と通路を通り過ぎていく。地下の通路を進んで行くが、ず〜っとコンクリートの壁が続き15分ほど歩いてもガイドブックで読んだような骸骨は全然無く、照明も付いている。ガイドブックに「天井から水が滴り落ち、何とも不気味で・・・」という記述があったため、単身ではさぞかし恐怖を感じるかと思っていたため、期待はずれだと思い始めたところ、それまで賑やかに話しながら歩いていた前を行く家族連れと思しき一行の子供たちが突然し〜んとなった。

 通路は真っ暗で何も見えなくなったため、持ち合わせのペンライトで照らそうとしたが運悪く電球が切れたのか電池が切れたのか明かりがつかない。後ろから歩いてきたティーンエイジャーと思しき少女たちの一行が懐中電灯を持っており、その明かりを通して目に入ってきたものは、両側の壁一杯に並べられた骸骨であった。

 大腿骨と思しき直線状の真っ直ぐな骨に所々に頭骸骨を交え、ビッシリと隙間無く、モザイク模様のように積み上げられている。確かに不気味な光景ではあるのだが、恐怖と言うよりも、“芸術的”とも言えるこの“作品”にむしろ感心してしまった。さすがフランス人。人骨までも芸術品に仕上げてしまうのか。

 歩きながら、人間の一生という時間の短さ、一人の人間の人生の儚さというものを考えさせられた。さだまさしの「防人の歌」が頭の中をず〜っと巡り、仏教でいう、この世に生まれたものが決して逃れることの出来ない、生老病死、愛別離苦というものを考えながら、出口へと到達した。

 外へ出ると回りは住宅街でアパルトマン(日本風にいえばマンション)が立ち並んでいる。位置的にカタコンブの真上部分に当たる場所にも普通にアパルトマンが立ち並んでいる。暗さになれた目に昼間の光が白っぽい色のアパルトマンの外壁が反射し、一層眩しく感じられる。徒然草の「人の亡き後ばかり」の最終部分「さては嵐に咽びし松も千年をまたで薪にくだかれ、古き塚は鋤かれて田となりぬ。その形だに無くなりぬ、いとかなしき」という一説が頭に浮かんできた。パリという街で、真昼間からきわめて仏教的な思想、世の無常ということを考えさせられる何とも不思議な体験となった。
©2003 森田繰織
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