日韓新時代 1
2003年03月
1. 再び光州へ年末年始の休暇を利用し韓国の光州とソウルを旅した。
本当は、南米ベネズエラのギアナ高地で落差世界一の滝「エンゼルフォール」を観に行く予定だったのだが、政情不安となったためキャンセルし、昨年8月の訪韓時に知り合い、以来「今度はいつ来るのか」と熱心にメールを送ってきていた友人を訪ねることにした。
韓国までは、時差がなく、フライト時間も2時間程度で、インスリンの注射を調整しなければならない必要性もさほどない。季節も同じ冬であり、国内旅行の延長といったところである。
昨年8月に韓国を訪れた際、たびたびマスコミで取り上げられる「“反日感情”なる言葉は何処へやら・・・」と思わざるをえないほど、友人だけではなく見ず知らずの人たちも含め、いろいろな人たちから親切にされたことにこの上なく感動し、本場のキムチやプルコギなど美味しい食べ物の虜になってしまった。
野菜の多い韓国料理 |
また、Yn氏の話では、「豊臣秀吉が朝鮮半島に唐辛子をもたらしてくれたおかげで、我々は、今こうして、キムチを食べることができる」ということであった。秀吉公が韓国の人から感謝されているなんて想像だにしていなかった。自分の先入観による思い込みに恥ずかしさを感じるとともに、「韓国人は・・・」とステレオタイプにひとくくりにして考えて論じてしまうことは視野を狭めてしまう危険性があると思った。
日本語教師のK女史と |
光州へは、成田から仁川(ソウルの国際空港)、仁川からバスで40分ほどの距離の金浦空港から国内線に乗換えて入った。光州の空港に友人Yu氏が迎えに来ており、光州広域市(日本でいえば政令指定都市のようなもの)の中心地から離れた高層マンション立ち並ぶ地区の一角にあるモーテル(簡易宿泊施設)へ案内された。ホテルのような設備はないものの、浴室付できれいに掃除されており、床暖房がよく効いており、寒がり屋の私にとっては非常に快適であった。周辺地区は、高層マンションの建築ラッシュ状態らしくあちらこちらで工事中でのマンションが見受けられ、そこで働く建設作業員たちが全国から集まってきているらしく、宿泊客は建設作業員風の人が多かった。
Yu氏の同僚で日本語教師のK女史を紹介された。このK女史には、5歳の娘さんがおり、またご主人は、腎臓移植をしたということで、日韓の移植医療についての話となった。日本では脳死が認められるようになったのは、1997年の臓器移植法の施行以降のことで、あまり症例としては多くないこと。腎臓の移植は、実際には身内からの生体移植が多いらしいことを話した。韓国での移植手術は、実数までは分からないそうだが、ほとんどが延世大学の付属病院で行われており、歴史も古いという話であった。
大衆食堂風のお店で |
2. 民俗村を観光
翌日、Yu氏、K女史、そしてYu氏の友人とともに民族村へ行く。入り口の駐車場脇に生米や木の実を売る露天が並んでおり、その中の一つのアジュンマ(韓国語で“おばさん”の意味)が生米を一つまみ掌にのせてくれた。小学校で覚えたという日本語で挨拶程度の会話を交わしたが、とても人懐っこい人で、日韓併合時代を経験しているにもかかわらず反日感情というものが全く感じられなかった。
民族村で |
3メートルほどの高さの石の壁に囲まれた中に、日本の茅葺屋根に似た家々が立ち並び、ヤンバン階級(支配者階級)の住まいや仕事場、鐘楼など、伝統的な韓国の昔の建物が再建されており、伝統的スタイルの人形が置かれている。民族村の中での食事もやはりテーブルに所狭しと並べられた皿数の多い韓国料理であった。このとき、生牡蠣を一つつまんでしまい、それが後で食中毒を引き起こすことにつながったのかもしれない。
夕飯は8月に来たときにも連れて行ってもらった、Yu氏のお姉さんが経営するアヒル肉の焼肉店へ行く。Yu氏のお姉さんが私を覚えていてくれて感動した。韓国では焼肉はほとんど全てサンチュ(サニーレタス)、青じその葉に包んで食べるため、野菜の摂取量が非常に多い。野菜である程度満腹感を味わえるため、肉を食べ過ぎることも防げるので、糖尿病患者にとって、やはりありがたいのである。
3. 先入観が誤解を生む原因?
翌日、K女史の大学の先輩で日本語通訳のYn氏を紹介される。Yn氏は日本からの交流団体のエスコートを何度も経験しており、日本人が喜ぶ韓国料理として、キムチ饅頭(キムチ味の肉まん)とカルグルス(日本のうどんに似た麺)でもてなしてくれた。Yn氏はとてもユニークな人でいろいろと冗談を言っては笑わせてくれる。日本車をほとんど見かけない韓国において(Yn氏の話では、2年ぐらい前まで日本車の輸入は禁じられていたとのことである)トヨタ車に乗っているほどの親日家である。
世代的に見て、反日教育を徹底的に受けたにもかかわらず、なぜ日本に興味を持ち、大学で日本語を専攻したのか。また、当時、日本語を勉強する上で肩身の狭い思いをすることはなかったかなどと尋ねてみた。すると「私の父は、戦時中、日本に強制連行されて強制労働を強いられ千歳空港の建設に携わった関係で日本語が話せた。強制労働をさせられる中で、当然、日本人からひどい仕打ちもうけた。にもかかわらず、仕事に対する責任感や勤勉さなど日本人を非常に褒めていた。それで、日本に興味を持った」と言っていた。学生時代、日本語を勉強する中、喫茶店などで、日本語を口ずさんでいると、「おまえ何やってんだ!」などといわれ、蹴飛ばされたこともあるという話であった。
Yn氏のこの話を聞いて、このように日本および日本人の良いところ理解してくれている韓国人がいることを知りこの上なく感動し、また、Yn氏が“うそつき”呼ばわりされないためにも、我々日本人は、責任感や勤勉さなど良い面で誇りを持ち、また守っていかなければならないと感じた。
伝統的竹細工の工芸品の店に連れて行ってもらい、ここでも日本と共通するものを多く発見し、文化の共通性を感じた。
そして、K女子の勤務先であるS高等学校へ日本人ネイティブスピーカー“臨時講師”として行き、韓国の高校生達と話す機会を得た。韓国の高校生は、見た目は、我々の世代の日本の高校生を思わせるような感じであったが、髪を染めたり、化粧をしている生徒は見受けられなかった。何よりも驚いたのは、朝7時45分から夕方6時まで授業があり、部活動はないとのことであった。他の授業も覗いてみたが、みな真面目に授業に取り組んでいる。どの教室にも黒板の上に大極旗が掲げてある。
この後、Yu氏が二年生を担当しているという教員仲間の飲み会に誘ってくれた。K女子は時間の都合で参加しなかったものの、英語教師がおり、何とかコミュニケーションはとれた。場所は、日本でもよく見かけるような水槽のある活魚の活造りの店であった。新鮮な魚介類が次々と運ばれてくる。尾頭付き鯛、まだ動いている蛸、生牡蠣、天ぷらなど日本料理そのものである。違いは刺身の食べ方で、韓国ではしょうゆの代わりにコチュジャン(唐辛子味噌)をつけ、サンチュ、青じそなどの葉に包んで食べていた。この後、カラオケへ行き、韓国人はとてもノリが良く次から次へと歌いながら踊る状態が続いていた。カラオケには、日本の歌もたくさんあった。
4. インフルエンザ? 食中毒? 下痢と嘔吐がとまらない! とにかく病院へ
宿に戻り就寝し、明け方3時ごろ、突然、目が覚め、吐き気と便意を催し、バスルームへ行く。そのときは、熱はなかったため、受け付けなかったものを吐き出し、下痢として出してしまえば回復するだろうと思っていた。しかし、一向に嘔吐も下痢も止まらない。以前フィリピンへ旅行したときに同じ症状に悩まされ、インフルエンザだったことを思い出し、インフルエンザを疑い、明け方5時ごろ迷惑とは思いつつK女史の携帯に電話をし、事情を説明し、「タクシーを呼んで病院へ行くので、何処か病院を教えて欲しい」と言ったところ、およそ30分後に宿の部屋まで正露丸を持って駆けつけてきてくれた。そのときは、インフルエンザを疑っていたので、正露丸は飲まなかった。
朝9時から病院が始まるということで、それまでベッドとバスルームの往復を繰り返しながら待つ状態であった。朝8時半ごろ、K女史は、勤務時間中であったにもかかわらず、授業が入ってないということでYn氏とともに車でH病院へ連れて行ってくれた。Yn氏曰く、「いままで、エスコートした日本人は、ほぼ例外なく、生牡蠣にあたっており、中には入院してしまった人もいる。昔、赤痢に感染すると日本人はほとんど死んでしまい、韓国人は生き残る人のほうが多かった」という話をしてくれた。
保険関係の確認をした後、救急処置室へ移された。既往症や病歴、頭部への衝撃歴がないかなど問診の後、頭部から頸部、そして胸部、腹部へと触診がなされ点滴治療を受ける。問診の際、「アイム ダイアベーティック(私は糖尿病です)」と英語と韓国語で「トウニョピョン(糖尿病)」ということは必死に伝えた。あとは、プロの通訳であるYn氏の助けを借りた。
点滴を受けながら眠ってしまい、気がつくと4時間以上経過していた。Yn氏と夏に来たときにお世話になったL氏が来ていた。会計を済ませ、薬を1日分もらい、とりあえず、宿へ帰ることとなった。このとき、会計はYu氏が負担してくれた。帰国後、保険が降りるから大丈夫だからといって、領収書に書かれた額を渡そうとするも、Yu氏は受け取ろうとしなかった。本当に親切な人である。領収書の金額は、全額自己負担にもかかわらず、日本円にして2,000円(韓国では20,000ウォン)程度だったので驚いた。円とウォンと間違えではないかと何回も桁を数えてしまった。
5. 宿へ戻り血糖測定、インスリン注射
宿へ戻り、食べ物は全く受け付けなかったが、血糖値は220mg/dLもあり、取り急ぎいつもと同じ量のインスリン(ノボラピッドを6単位)を注射した。K女史が、「水は飲んではいけないので、温めの麦茶を作ってくる。それまで宿で休んでいて」と言ったので、低血糖用の砂糖をベッドの脇に置き、またも夕方6時ぐらいまで熟睡してしまった。
夕方6時ごろ、Yu氏が麦茶を持って来てくれた。宿の部屋は、床暖房が効き非常に暖かいが、なぜか空気は乾燥しておらず、喉をやられることはなかった。それでも、汗で蒸発した水分を補うため、ゆっくりと麦茶を飲む。血糖を測り、またも230mg/dLほどあったため、夕飯は食べられない状態であったが、とりあえずいつもより2単位少なく(ノボラピッド6単位)インスリンを打つ。それから、またも熟睡し、夜10時ごろ目が覚め、ニュース番組でも見ようとテレビのチャンネルを回していたら、NHKの紅白歌合戦が放映されていたので、見ていたところ、K女史がお粥を作って持ってきてくれた。梅干は探したけどなかったからといって、日本の沢庵に似た漬物を一緒につけてくれていた。汗で塩分が失われていたらしく、非常に食が進んだ。
©2003 森田繰織